河合曽良という男がいる。
 この男は私の門人のひとりであって、更には行脚の同行者にもあたる。
 私が選んだ。認めよう。気のおけない相手であり、特に信頼のおける弟子でもある。認めよう。
 だけれども言いたいことはそれだけじゃあない。ああ、どうしたって、言わせてもらおうじゃないか。

 曽良くんは無愛想だ。とんだ朴念仁だ。その上、傲慢の気がある。私のことを本当に師であると認めているのか、疑問に感じることも少なくはない。
 だって私へ、微笑みかけてすらくれないじゃないか。
 元より喜怒哀楽のささやかな、大人しい男ではあるのだけれども。





 曽良くんは、笑わない。
 愛想笑いもしなければ本気でだって滅多に笑わない性分だ。
 ではどのような機会に笑うのかというと、私としては海の日にでも笑うのではないかとふんでいるのだが、当人いわく『要らなくなったものを処分して、さっぱりした時とかに』笑う、らしい。
 そして私も、まあ、一度だけ、そんな『曽良くんの笑顔』を見てしまったことがある。恐ろしい思い出だった。あんまり記憶をほじくり返したくない。
 あの日、私は死すら覚悟したのだ。そして必死に謝る練習をしたものである。覚悟が重要であったが、角度も重要だった。

 とにかく。
 とにかく、曽良くんは笑わないのだ。
 そういう人間は、別に珍しくもない。たくさんいるってわけじゃないけど、いちゃいけない、っていうわけでもない。
 解っている。曽良くんに笑顔がないっていうのは、何もわざとなんかじゃないんだ。私に対してばかりでもない。

 でも、けど、ものわかりが悪いところは別だ。傲慢の気のあるところも、別だ。
 見た目ほどには大人しくないということ、その手を平然と上げるということ、これだけ思い知らされている人間なんて私しかいないんじゃないの。そのくせ一応、形式だけはお師匠として扱うだなんて。
 わかんないんだよなぁ。


 河合曽良という男は、確かに私の弟子である。
 それでいて、気のおけない相手だ。信頼の対象でもある。
 けれども度々わからなくなる。その感情の起伏、ふとした変化だとか、いざとなった時の本心だとか。追い求めたいものに限って、彼という男はすぐに、わからなくなるのだ。
 だから私はどうしようもないままに度々、感じている。惹き付けられるように願っている。
 意味がどうこうと考えることもなく、ただただ穏やかであるがまま、彼の笑顔を見つめてみたいのだと。





(……なぁんつって)
 ぼんやりと、そうしたことを、考えて。
 いながら私は畳の上にごろんと横たわっている。

 時刻はちょうどお昼過ぎ。買い食いを終えて戻ってきたばかりで、ひどく満腹だった。
 となると人間、誰しも眠たくなってしまって仕方のないものである。夏だし、風邪をひくこともないだろうから、ここらでひとつ優雅なお昼寝というのも悪くないんじゃないかと考えているのだ。
 場所は宿だし、出発は明日だ。なにか予定のあるわけでもない。忙しない旅のうちにあっては、滅多にないと言える機会であった。
(曽良くんも、なんも言わないし……いいよね) 
 同じ部屋の中にいるはずの彼は、その辺で書き物でもしていることだろう。食べてすぐ眠るな、という風に叱ってくるようなこともない。

 私がうとうとしながら、君について考えていただなんてこと知る由もないんだろうな。

 教えてあげないけど。
 余計なことなんてひとつも言わないでおくから、君の目の前で居眠りさせてよね。体力のないおっさんですから。いつもみたいに呆れてていいけど、でも、見捨てんといて。
(おやすみなさーい)
 満ち足りたお腹の中でだけ、こっそりのんびりと挨拶をしてから、本格的に滑らかな畳へ意識をあずけてしまう。
 あぁ、しあわせ。
 おやすみなさい。朝から夜まで私と一緒で、仏頂面のまんまの曽良くん。




 そうして、いくつほどが経過したものであろうか。
 柔らかにとろけた睡眠からはっと浮上した私は、体の上に小さな温もりが『乗っかって』いることに気づいた。


(……あれ、あ? なに、これ)
 醒ましたばかりの両目では視界もはっきりとしてくれない。
(これ、これ、ええと、これは……)
 曖昧な意識をしぼって現実をかき集める。これ。これは、もしかすると人肌じゃないか。
 そうだよ。ヒトの体温だ。着物越しだけれども、まったくもって解らないというわけではない。これは『誰か』の温もりなのだ。
(…………誰の?)
 旅の道中。昼過ぎの宿。私の居眠り。
 心当たりは、ひとりしかいない。
(ま、さか……)

 曽良くん。


 信じられない。と、否定してしまうよりも先に、視界がはっきりとしてくれた。
 それは確かに曽良くんだった。
 彼と私とは寝転んだまま、まさしく向かい合っていたのだ。それでいて曽良くんの、左の方の腕が。私のからだの上へと伸びて被さるように乗っかっている。
 体温として伝わってくる。

(曽良くん、も、寝てる?)
 すぐ目前には、曽良くんの姿があった。
 その両瞼は閉じられている。唇からは規則的に、柔らかな吐息が漏れている。
(どうしてこんな状態に……なったんだろうか)
 考えてみても、とんと解らなかった。
 曽良くん。君ってほんと、わっかんない奴だよね。
(それにしたって…………)
 これじゃあまるで抱かれているみたいだ。


(なァんて。まっさか、なぁ)
 断罪チョップの一種です。とでも言われた方が、よっぽどそれらしいと感じられることだろう。
 ああ、曽良くんの左手こわい。

(……こわいなー、と思ったら)
 なんか厠へ行きたくなっちゃったよ。人間のからだって、単純に出来てるもんだよなぁ。
 まあ、いいや。行ってこよ。



(はいはい曽良くん、ごめんなさいよ)

 私は曽良くんの左腕をそっとどかして、彼の眠りを邪魔しないよう、細心の注意をはらいながら立ち上がった。
 起こしちゃったら文句を言われるのに決まっているしね。というのもあるけれども、曽良くんのお休みに水を差したくない、というのが概ねの本音だ。
 だって曽良くん、普段から気弱な物言いもしないし、疲れた素振りだって見せてはこないから。こういう機会は大切だ。
 たまには曽良くんが昼寝して、私がそれを見守るっていう日があったっていいよね。

(ゆっくりお休みよ……と)
 お師匠様は、ちょいとご用を足してきます。手を洗ってから帰ってくるよ。そうしたら、曽良くんの寝顔観察でもしようかね。ふたりで昼寝もいいかなあ。


 それじゃあ曽良くん。行ってきます。
 私はまたもやお腹の中でだけ、声のない挨拶をする。








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