一方的な約束通り両手をきちんときれいにしてから、私は部屋まで戻ってきた。


 襖を開いて中へ入ると横たわる彼の背中が見える。
(曽良くん、まだ寝てる)
 思えば珍しいことだった。
 彼はあんまり、人前では眠らないから。というか隙すらも見せたがらないから。まあ、少なくとも私の前じゃあね。寝ているところを見たと思ったら、もう起きているのが曽良くんだ。

(そうだ。落書きでもしたろうか)
 いや、それはさすがに危険だろうか。
 頬をつねれば、おそらく起きてしまうだろう。つつくぐらいなら大丈夫かもしれない。
 私は胸をときめかせながら、にじりにじりと曽良くんへ近寄っていくのだった。だってよくよく考えてもみれば、いたずらしてやる絶好の機会じゃないか。
 大丈夫、バレなきゃぜんぜん大丈夫。ああ、なんだかドキドキする。
 おそるおそるに歩みを進めて、彼の前側へと回り込む。

 そうしてついには曽良くんの無防備な寝顔が、私の手の届いてしまう範囲、に。


(あ、れ?)

 覗き込んで見た曽良くんの表情は、必ずしも無防備なばかりではなかった。
 彼はどうしてか眉根をよせているのだった。普段通りの無表情とは、何かが違った雰囲気である。
(どうしたんだろうか……)
 首を傾げていると、ン、という、ごく小さなうめき声が聞こえてくる。それは当然ながらに彼の、曽良くんのものであって、どこか苦しげな上に切なげでもあった。
 深刻な雰囲気だ。このかっこつけ男め、じゃなかった、どうしちゃったんだよ。ほんとに。巨大なザリガニに追いかけられる夢でも見ているんだろうか。
 ついさっきまで私の上に乗っかっていた左腕は、畳の上に放り出されて、半ば斜めに浮いている。
(……これが苦しいんじゃないのかな)

 すると、びく、と。その左腕がうごめいた。

(……おぉっ?)
 私は、猫を観察する子供のようにもして、その様を見守る。
 曽良くんの眉根はよせられたままだ。浮いた左腕は、不規則に動く。
 彼はやっぱり、笑わない。どんな夢を見てるんだろう。想像もつかない。
(また、わからないよ。曽良くーん……)

 などと私が情けなく、お腹の中で彼の名を呼んだ、正にその直後のことである。
 不意に曽良くんの唇が震えた。
 そこから、言葉がつむがれる。


「……ば、しょう、さん?」


 ああ。


(えぇ?)

 私は暫し、ぼうっとした気持ちでその響きを反芻した。
 ばしょうさん。
 って、私だよな。芭蕉さんなら、ここにいますよ。

 彼の左腕がもうひとつ、ぴくんと息づく。
「……う、さ……ん」
 だ、から。
(ここに、いる……ってば。曽良、くん)


 曽良くん、曽良くん、なんなんだよもう。いったいどんな夢みてるのさ。
 起きて教えてくれないの。
 それはまあ、仕方ないけど。食事の後は眠たくなるもんだし、曽良くんだって疲れてるんだろうし、そうそう、それこそ私だって寝てたわけだし。
 でも私だって、君の名前を呼びたいよ。
 そんで、君に聞いてほしいよ。曽良くん。曽良くん。

 元々眠っていたのは私の方で、もう眠たくなくなったっていうわけでもなくて、また眠ることもできるのに、どうしてか動かないでいる。
 どうしてか。どうしてかって、視界にいる曽良くんから目を離すことができないからだ。どんな夢を見てるんだろうとか、夢の中でくらい笑ってくれないのかなあとか、なんだか苦しそうなのはどうしてなんだろうとか、君の唇から出てくる私の名前のこととか。
 君のことを見ながらこんなにも、こんなにも、考えてるんだってば。
 曽良くん、曽良くん、届かないかな。わかんないかな。
 いつだって平然として、私に手をあげたりとかするくせに。こんな時ばっかり可愛らしくて、そのくせつかみ所がないだなんて、ずるいじゃないか。


 君には私のこんな気持ちが、わからないの。私にも君がわからないんだけどね。
 無愛想だとか、朴念仁だとか、傲慢だとか。それだけじゃないってこととか、傍にいるときどうしてか、安心できる思いとか。
 考えても考えてもわからない。結局のところ、ここにあるものだけが真実だ。
 それとも。手を伸ばさなくたってここに在るっていう事実が、もしかすれば最高の幸運なんだろうか。

 だったら、もういい。それでいい。
(……いいから。私も、寝てしまおう)
 ごそごそと動いて、曽良くんの左腕にそっと触れ、そのまま体を横たえる。
 さっきまで私に重なっていた場所。そして、ここに在るもの。
 曽良くんの体温。曽良くんと私のつながり、ただ、それだけのこと。それだけの真実。
 この場所でもう一度、眠ろうと決めた。


 すると。
 畳へ半ば沈んでいる状態だった曽良くんの左腕が、ゆっくりと持ち上がって、触れている私から離れていった。
 かと思えば、また私に触れる。私の上に。ふたたび私の体の上に、そっと被さるようにして。

(曽良、くん?)
 そうして。

(…………あ)


 ほんのひとかけら、曽良くんが、笑った。




(曽良……く、ん。このやろう)

 君はほんとに、一体どんな夢を見てるのさ。
 夢の中では海の日なのかな。それとも、大掃除でもしてるんだろうか。巨大ザリガニに追いかけられたって、そんな顔なんかしないだろう。

 私、このまま眠ってもいいの。その後どんな顔をして、君の横で目を醒ましたらいい。

 鼓動もこんなに近いのに。
 彼はきちんとここにいる。無愛想で、朴念仁で、私の隣を歩くひと。
 とても、とても大切な。


(どうしろっていうんだよ……)

 そこから逃避するかのように、私の意識は微睡んでいった。
 眠ろうと努める。私の心臓も、どきどき、どきどきと、彼のせいで高らかに脈打っている。
 ずるいじゃないか。こんな時ばっかり可愛らしくて、そんな風に笑ってまでみせるだなんて、ずるいじゃないか。
 昂揚は当分とどまりそうにない。



 曽良くんの微笑みは夢のような、現のような、あたたかな世界を私にくれる。
 触れたままの彼の左手は、時折、確かめるようにも動いて私の背をくすぐった。その度に私は問うてみたいと思った。

 ねえ、曽良くん、どうしてこんな風にするの。
 君がわからないよ。手を上げられて叩かれる時より、ずっとどうしようもないよ。
 けど、こうやって君のあたたかい場所に触れながら眠ったら、もしかすると君の夢くらい見ることができるんじゃないだろうか。





 曽良くんは、私の弟子。無愛想だ。とんだ朴念仁だ。その上、傲慢の気がある。私のことを本当に師であると認めているのか、疑問に感じることも少なくはない。
 それでも気のおけない、信頼のできる相手だ。不思議なことに。
 彼の傍らにいられる、それだけでもうひとつ、しあわせになれる。

 そんな彼の微笑みだからこそ、私にとっては、黄金の剣よりも水晶の棺よりもダイヤのおにぎりよりも貴重なものであるのかも知れなかった。
 なぜならば私も。



 私だって曽良くんのことを考えて、考えて、目で追いかけているんだから。
 わかって欲しいと想ってるんだから、ね。









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