曽良に対して言いたくても言えなかったこと。
これを纏めたランキングを、作成者である芭蕉曰くは『曽良に言いたくても言えなかったランキング』と呼ぶ。その愚直ぶりに彼なりの切羽詰まった感情があらわれている。事実そこには股の下、ナイル川、民事訴訟といった様々なキーワードが並ぶものの、少なくとも現状において殆ど実現されてはいない。
そこまで非現実的な望みを込めているというわけでもないのだが、ただ、芭蕉は無力であった。
問題はより根本的な部分に息づいていた。
さておき。
そのようにして言葉へとこだわる、俳人・松尾芭蕉の弟子なのである。
当の河合曾良の方にも、同様のたくらみが有るとしたらばどうであろうか。
曽良が師である芭蕉に対して、言いたくても言えなかったこと。敢えて順位付けをするほどにはないかも知れない。なぜならば曽良は芭蕉に対して、芭蕉が曽良に対するときほど物理的に無力ではない。
それでも、そのほかに『何らか』あり得ぬとは言いきれないのだ。彼のうちに、芭蕉へ向けた、順位のつくような願望の切片が。
河合曾良とて人の子である(ただし、芭蕉からは時に鬼の子ではないかと仮定されている)。こめかみから噴き出ることのある怒りの血流も、その事実を証明している。
否定されるべきものでなければ、果たして肯定されようものか。
曽良の内、本当に『何らか』の芭蕉に関わる願望などが有るとして。鬼とまで呼ばれた男が密やかに感じうるそれを、いったい何処に覗くことができるであろう。
そこで旅の道中、とある晩から朝にかけての出来事である。
芭蕉と曽良はさる俳人宅に至って、とどまり世話になっていた。
主人は芭蕉の旧知である。数日のあいだ滞在をする予定で、二日目には俳席の予定も設けられている。
初日、ひとまずは到着までに積み重なった疲労を癒すべく、ふたりとも早いうちから布団へと入らせてもらった。程なくして両名の寝息が、ひとつの部屋の畳に混じる。
あとは穏やかな朝を迎えるばかり。そのはずだった。
しかしながらその晩、曽良は、夜半の仇敵とまさに対峙していたのである。
夕刻の街中を生きる人々の群れ。子を連れた母親の姿に、友人同士らしき談笑をしている集団、恋人同士であろう二人組の姿もある。どうということはない光景だった。
しかし、芭蕉は歩みをとどめる。
曽良はというと、斜め横あたりの位置から彼のことを見守っている。
芭蕉の視線はどこかへ向いて、ぴたりと静止していた。曽良ではない何処かへと、向いて。
追うようにしてそちらの方角へと、曽良も視線をやってみる。
すると、茶屋の店先であった。そこには若く体格のよい男がひとり、腰掛けて湯気のたつ茶碗を手にしている。顔立ちはよく解らなかった。
しかし。
「あのひと、かっこいいなぁ……」
師は、芭蕉はその歳にして、まるで少女のような溜め息をつくのである。
名も知らぬ男に対して。頬にはうっとりと紅などたたえている。
すると世界は芭蕉と顔のない男、ただ二人きりのものであるかの様だった。
師の目は弟子を、見もしない。
そこへ至ったところで河合曾良は飛び起き、すかさず掌を鋭くおどらせた。
「この尻軽がッ!」
「えむぺぐっ!」
情けのない悲鳴をあげたのは、その横に眠っていた他ならぬ松尾芭蕉である。
松尾芭蕉。曽良の隣の布団にて、ぐったりとした縫いぐるみの一体と並び、口にするのは恋句ではない意味の解らぬおかしな寝言。
それは決して曽良の夢中、街中にあって年甲斐もなく胸ときめかせていたそれではない。現実世界の生き物だ。
「そ、曽良くん……何をする……」
叩かれてしまった勢いで、彼も睡眠より浮上したらしい。半ばぼんやり、半ば唖然とした様子で呻いている。
その一方で、曽良はもうすっかりと目を醒ましていた。
「いいえ。別に」
「別に、別、に、って…………君ってやつぁ」
事実、然したる出来事ではない。単なる夜半の夢物語。それだけのこと。
現実の芭蕉は、とばっちりである。
時は早朝に至っていた。
第三位『あのひと、かっこいいなぁ』
さて、早朝から衝撃を受けておいたことが良かったのであろうか。
その日の芭蕉は俳席を実に華やかなものにした。旧友である主人をはじめとして、同席の人々を充分に満足させたのである。
曽良にしても、今日の芭蕉はよいものを詠むと感じたため、それ相応に褒めてやった。すると芭蕉は今朝の一撃のことなどさっぱりと忘れてしまった様子で、見たかまいったか、とへらへら喜んでいる。
その後はそれぞれ湯に入り、夕食も済ませてから、ふたりして明日以降のことなどを確かめた。
主いわく近場にそれは好い景色があるということで、案内をつけてもらって向かってみる予定になっている。それが明日、出発はその更に翌日の明後日となる。
そしてふたりはこの日の終い、遅くまで主人に付き合い(正確には主人と芭蕉に、曽良が付き合うようなかたちで)、道中の話など盛り上げながら酒と肴を口にしたのであった。
夜もとっぷりと更けた頃、ようやく揃って布団へ入る。
そしてまた、夜半の仇敵。
そこにおいて曽良は、今度は芭蕉のいる場所を『覗き込んで』いるらしかった。
夢のうちだからこそであろうか、浮遊霊にでもなってしまったかのような、相手側には認識されぬ外からの視点を保っている。
芭蕉は誰か、男を相手に会話していた。
その誰か、というのが実際に何処の誰であるのかは、よく解らない。やはり顔立ちがはっきりとしないのであった。様子を見ると、兄弟弟子の内の誰かなのかも知れない。
男は何やら、笑い混じりに芭蕉へ問うている様である。そして芭蕉も笑っている。どこか照れくさそうな様子で、落ち着きがなく、彼らしい子供じみた表情だ。
それでいて時折、不意にとんでもないことを口から出すのである。
「曽良くんのこと、好きかって? ああ、好きだよ」
ただし。
曽良がその涼しげな双眸をぎっと見開くのは、この次の言葉を認識した後であった。
「……くんと……くんの、まあ、次くらいにはね!」
照れくさそうに崩れていた表情が、更にへにゃりとして潰れた。
やや色薄い、茶色がかった睫毛がいかにも幸せそうにして揺れる。その下にて。
師の目は弟子を、見もしない。
そこへ至ったところで河合曾良は飛び起き、すかさず掌を鋭くおどらせた。
「この淫乱がッ!」
「じぇいぺぐっ!」
松尾芭蕉の寝言が途切れ、まさしく悲鳴へと移り変わる。
「そ、曽良くん……何をする……」
とはいえ矢張りぼんやりとしている様子ではあった。
「痛いじゃないかぁ」
「いいえ。別に」
「いいえ、いい、え、って……ほんっと君ってやつぁ」
事実、それでも、決して然したる出来事ではない。何故ならすべて夢物語。
現実の芭蕉は、またもやとばっちりである。
時は早朝に至っていた。
第二位『曽良くんのこと好きかって? ああ好きだよ、××くんと××くんの次くらいにはね!』
また、早朝から衝撃を受けておいたことが良かったのであろうか。
その日の芭蕉は晴天のもと、望んだ以上の美しい風景を目前として、ひとつふたつと良いものを生み出していった。
曽良は黙してこれを書き留める。ついでに一言ふたことずつ褒めてもやると、やはりさすがの芭蕉である。今回も朝方の一撃のことなどはすっきりと忘れてしまった様子で、そうだろうそうでしょう、とへらへら笑っている。
夕刻に至ると、ふたりはもと来た道をゆったりと歩んで戻った。案内の者に礼を言って、晩には見送りの宴会に招かれる。
明日には出立の予定である。ふたりの旅の先は、長い。
そうして、またもや夜もとっぷりと更けた頃。ようやく揃って布団へ入る。
やがて更なる、夜半の仇敵。
今回の意識は畳の上にある。
畳とはいっても、用意された部屋とはまた異なっている。
視界は全体的に薄暗かった。灯りがひとつ、辛うじて端の方に揺らめいているという程度で、その灯りも決して頼もしいというようなものではない。
どこか雰囲気がおかしい。ゆったりとして重たい空気に満ちた、広くはない部屋。
そうした中に、影がひとつ、震える様にして蠢いているのだ。
芭蕉である。
少し歩かせただけでも悲鳴をあげる弱々しい細ずねが、左右ともにすべてむき出しとされている。それこそ、やはり曽良よりも色素のうすい臑の毛の、一本ずつが確かめられるようですらあった。骨と爪とで角張って見える爪先にも、当然のことながら履物は無い。
そうして足からすれば逆側、二本の脚の付け根の方には、下帯が。
無かった。
それでいて芭蕉はその両脚を、自らで大きく開いている。
あえて会陰を見せつけ、外性器をあまさず曝した状態にあるのだ。陰嚢を基部とした陰茎もまったくもって隠されてはいない。
それどころか、上向きに主張をしている。はっきりとした勃起であった。
ただしどうしてか、見た目にはきれいに乾いた風である。そのくせ先端の入り口だけは、雛鳥が餌を待つかのごとく、震えてぱくぱくと呼吸をしている様子であったが。
浅ましい。
下生えの群れの影なども、それらの痴態をせめても覆い隠すために、あまり役目を果たしているとは思われなかった。
いや。体毛の薄らとして頼りなげであることが、浮かびあがる彼のかたちを寧ろ生々しいものとして飾り立てているのだ。
どこか雰囲気のおかしいどころではなく、その光景は異様ですらある。視界から曽良の内へと、じわじわ流れ入り侵してくる。
下半身を隠さぬ芭蕉は上半身をも、やはり隠してはいなかった。
歳相応に色の枯れて薄い乳頭。あばらの浮き出た様子から、余計な肉が少しばかりについているだけの貧相な腹まで。
あらわにしての全裸である。一糸も纏ってはいない。
その上で、力なく首筋など仰け反らせながら、彼は畳の上に。いや、正確にはどうやら布団の上に在るらしかった。
いま一度、曽良『の視点』は確かめる。
まず太股までを、奥を見せつけるようにして開いている。そしてそこには筋肉のない二本の腕が伸びている。左右の脚、それぞれを掴んで、ぐいと支え上げているのだ。
愚直にも曝された勃起を中心として、仰向けとなった姿である。
そんな風にして彼は、そこに。
何のつもりで。なんのために。
「……誰でもいいから」
は、と漏れたのは、果たして何者の吐息であっただろうか。
ひどい格好をしている芭蕉の。あるいはその様を『覗いて』いる曽良の。
そうでなければ、いったい、誰の。
「今すぐ、種付けて…………」
ねだる声色が続いた。
すると、布団の上にただ横たわる、あまりにも無力でいやらしい生贄へ。
あっという間に誘われる。
しゃぶりつくかのように、複数の手が。
そこへ至ったところで河合曾良は飛び起き、すかさず掌を鋭くおどらせぬ、わけもなかった。
「嫌がれッ!」
「どっとこむっ!」
続いては、松尾芭蕉の悲鳴である。
曽良はゆっくりと腕を降ろすと、隣の方へ目線をやった。そこには曽良の師であるところの芭蕉が、ややだらしなくも寝間着を羽織って、左の頬を押さえている。
「そ、曽良くん……何、を」
「……なぜ、三度目にして悲鳴の方向性を変えるんです?」
「え、いや……三度目の正直だと思って……それより君は、どうして師匠を、三度も本気で引っ叩いて起こすんだよ…………それも連続で……またこんな早朝に!」
ぶつぶつと言葉を続けていくうちに、どうやらようやく頭が冴えてきたらしい。
「二度あることは三度あると言うじゃないですか」
「ほ、仏の顔も三度までだからなっ……チクショーッ」
憤慨も伴って立ち上がろうとする芭蕉である。すると、曽良の視界のうちに茶色い綿の塊があらわれた。芭蕉の向こう側にあって、斜め向きにぐったりとしている。
うつつだ、これは。
これが。
「三度まで、ですか。今日から数えると、残り二度しかありませんね」
「なんだそれ! きりが無いじゃないか!」
つまるところあれは、あれも、夢物語だ。現実の芭蕉はとばっちりである。
それに過ぎない。くだらぬことだ、と曽良は咀嚼する。
「……っていうか曽良くん、なおもやる……気?」
目前では両膝まで立った状態の芭蕉が、不安げな様子を声に表している。顔を確かめてみると、若干に青ざめていた。
曽良の方は未だ布団に入っているため、珍しいことに斜め下からの視界である。すると歳相応に貧相な彼の身体のつくりが、よく解る、ような気もする。
纏う寝間着の色は白い。透けて見えてくるものはない、が。
思い起こされることはある。
「……二度とあってたまるかッ!」
「あっとまーくッ!!」
絞り出された悲鳴が、いま一度。
早朝の畳の上に響き渡るのであった。
それを終いに、そう、両者にとって幸いなことに最後として、ここでひとまずは出尽くしたわけである。
第一位『誰でもいいから、今すぐに犯して』
曽良の内へと秘められた、芭蕉に関わる望みの切片。『言ってほしくないことランキング』が存在するとして。
しかしながらこれは、おそらく日々に変動していくものである。
なぜかといえば河合曾良とて、果てなく何かを想っては、辿り着く先を知らないでいる。
そのような、人の子であるがゆえに。