ひと晩世話になった家の子供から、果物をもらった。するすると木を登り、実りの中から熟れているものを選んで、小さな両手にもいで来てくれたのであった。
「一つずつ」と言って丁寧に手渡してくれる。私と曽良くんは礼を言って、それぞれの片手にしっかりと受け取った。
とはいえ、持ったままで歩めばその手が塞がったままになってしまうし、荷物に入れて運べば痛んでしまいかねない。そうしたわけで行儀のよろしくはないものの、彼も私も進みながらに食することとした。
薄らと汗をかくほどには気温が高く、いくらも経たないうちに喉が渇きそうだったということもある。それに幸い、私たちふたりの歩き食いを咎める声だって聞こえてはこなかった。
「んん。うまい」
「そうですね」
小ぶりの果実は甘酸っぱくて瑞々しい。私と曽良くんの片掌を、唇を、ぺたぺたと濡らしながらに呑み込まれていく。喉へ染み込む水分が心地よかった。
「でも、なんだかすっごい果汁が漏れてく……」
「黙って食べたらどうですか」
怒られてしまった。
はいはい、解りましたよ。なんだよぅ、自分だって指の隙間とかべたっとさせてるくせに。
なんてことを考えているうち、私の方が先に食べ終えてしまった。指先で、最後のかけらを口の中へと押し込む。
「ごちそうさま。あー、もっと欲しいなぁ」
ついでに、思うまま口へと出してもみる。食べ終わるまでは言われた通りに黙っていたのだから、曽良くんにだってもう叱られはしないだろう。まったくもう、文句の多い弟子なんだからさ。
「曽良くん、ひと口ちょーだい」
くれたって、いいんじゃないの、そのぐらい。なんてね。こっちも行儀はよろしくないけど。
でも、私だってこういう態度を、誰彼かまわずに取るっていうわけではない。一応ね、これでもさ。
曽良くんの前でだったら、肩の力を抜けるんだ。何を言うにも遠慮なんかしなくていいんだ。そのせいで叱られたりとか、痛い目をみることだって無いではないけど。
「……いやです。図々しいですよ」
ほらね。曽良くんの方にだって、遠慮なんかないんだもんね。
物言いはこうだし、厳しいことだってバシバシ言ってくるし。その割には、主張するための言葉に限って省きがちだし。曽良くんの本音っていつだって突飛で、けれども定かなものじゃない。
ひとこと言ってやろうかな。
(お師匠様のこと、もーちょっと甘やかしてみたらドゥ?)
いやあ、止めとこ。必殺の手刀が飛んできそうだし。
せっかく美味しかった果物を、万が一にも吐き出してしまうわけにはいかない。怖じ気づいたわけではないよ。断じて。
ともかく、曽良くんに『ひと口わけて』くれるつもりが無いっていうことは解った。
「松尾芭ションボリ」
「まあ、いやです。図々しい」
「二度も言わんといて!」
ああもう。面白がってんのか、この子ときたら。
別にいいけど。慣れちゃってるんだもんね。
曽良くんは未だ手の中に残っている果実を、ひとくちひとくち大切にかじっている。
そうだよね。美味しいんだから。私だってひとつ食べたんだから、そりゃあ分けてくれないよね。
彼と私との間に共通した、ささやかな幸せ。これだと思って拾い上げ、確かめることができる。
読み取りきれない男だけれども、私にだったら不可能じゃない。伊達に付き合っちゃいないんだから、できるんだ、と思っておこう。
それにしたって薄らと暑いものだから、歩いているうちに喉は渇いてくるのだった。
水筒の中身を飲んでしまいたくなる。けれども、きれいな飲み水をそう易々と消費するわけにもいかない。早々と飲み干してしまって後悔したこともあったし、曽良くんってばその時だって、確か一滴も分けてくれなかったし。
「あー、喉かわいたー」
果物が甘かったからかな、逆に。
「もう一個ほしかったなー」
でも、渋いよりかは好いよね。
「ねえ曽良くんも、そう思っ……」
だなんて、何とはなしに言い続けていると。前の方を歩いていた曽良くんが、聞き流さずにくるりと振り返ってきた。
「……う?」
「芭蕉さん。右腕を出してみてください」
「え、なに?」
要求に要求で返そうだなんて、しかもこんなにも穏やかに。珍しいこともあるもんだ。私は素直に右腕を差し出した。するとその両端に、曽良くんの右手と左手がかかる。
そうして。そのまま、ぎゅうぅと捻られた。
「うぎょあぅっ!」
何してくれるんだこの弟子は。やたらと絞られちゃってるじゃないか、私。早くも予想外だよ。曽良くんの意図を拾いそこねてるよ。
痛みに悲鳴を飛ばしながらも私は慌てた。慌てて、右腕を逃すべく全身でぐいぐいと頑張った。すると彼は、事も無げにぱっと両手を離す。
「なッ、なんでっ……しぼるんだよ!」
「元気が出るのではないかと」
「出ないよ!」
おまじないか何かのつもりかよ。痛いだけだったよ、もう。
「水分も、出るのではないかと……」
「出てたまるかー!」
それこそ果物なんかじゃあないんだ、私は。マッサージだったらともかく、ぎゅうぎゅうに搾られたって元気は出ない。そうだよ、どうせだったらマッサージのひとつくらい、してくれたっていいのに。
まあ、『煩い』『静かにしろ』っていうことなんだろうけどさ、曽良くんの本意は。たぶん。
「芭蕉さん。果物というのは、ものによっては揉むことで甘くなるんだそうですよ……酸味が弱まって、甘みが引き立つとか」
「へえ、そうなん…………いやいやちょっと!!」
だから私は果物なんかじゃないっていうのに。どうしてそれをこのタイミングで行動に移しちゃうんだよ。
「しかし、どうも際立ちませんね。しぼんで元気も出ないようですし」
「そりゃ出ないよっ……あと、しぼんでない!」
そのうえ、紙風船かナニかみたく言ってくれちゃって。私は君のお師匠様だぞ。と、怒る私のことを構いもせずに、曽良くんはなんだか考え事をしている様だった。
かと思えば、再びこちらへがっきと目を合わせてくる。
「なら、確かめてみますか」
彼の視線には妙な力強さがある。
「果たして本当に際立っているのかどうか……」
「はァ?」
「甘みが」
私は沈黙した。曽良くんの方も、数秒ほど黙りこくった。
「……で? どうやって確かめろと」
「いや、知らんけど……」
こっちが聞きたいっての。それに、だから、それって果物の話なんだろ。私は先に食べ終わっちゃってるし、曽良くんの掌にだってもう無いみたいだし、今更だよ。おかしな流れだよ。
すると曽良くんは、改めて私の右腕を、今度は片手だけ使って持ち上げる。
そして。
「こうですかね」
「ひッ」
手首よりもやや下のあたりを狙って、するりと舌を這わせてきた。
「甘味はありませんね。汗の味ばかりです」
「そ、そりゃあ……ヒトの肌なんて、そんなもんだよ」
っていうか曽良くん、私のこと嘗めてるんじゃないか。比喩とかじゃなくって、本当に舐られちゃってるんじゃないか。しかも『こんなところ』で。
(屋根の下でだって恥ずかしいのに……!)
そんな妥協点を見つけちゃう自分が、ちょっと悲しくもあるけど。
「ああ、芭蕉さん。忘れていました」
「……え?」
「大概の果物はまず、皮をむいてから食べるもので……」
「ひぃ! 怖いこと言うなーッ」
そういう間柄なのに、こんなこと言っちゃう君も君だよね。
「なら、どうしろというんですか」
「どっ……」
どうもしないでいいよ。と、喉からは出かかったけれども言えなかった。
(ああぁ……曽良くん。本当になに考えてるの、君)
君にとっての私って、なんなんだろう。お師匠様。あるいは、もう少しばかり甘ったるいもの。食料だとか思われてたりして。もしかすると、おもちゃ、だったりして。
「どこを確かめれば、甘くなっているんですかね?」
どれもあり得そうだなあ、これじゃ。なんていってる場合じゃなかった。
「教えてください。早く」
「わっ、私はだから果物じゃなっ……」
言い返してやろうとしているのに、曽良くんの空いている方の掌は、私の右袖をまくり上げてくる。
右の腕があらわになる。その皮膚はおそらく、汗をまとってしおからい。けれども彼は構うことなく、またしてもそんな場所を暴いてしまった。
再び、今度はゆるゆると舐られる。
もっと強く言っておけばよかった。脳裏にはそう思いながらも、腕力で負けて抵抗すらままならない。
(……ああ。しまったなぁ)
日頃の言動から句作に至るまで、無表情ではありながらも、真っ直ぐな表現を為すことの多い曽良くんである。そんな彼がこうした回りくどい物言いを、行動を、選択するときには。
(これって、あれ……)
その本意を、遅れてようやく捕まえた。
だめだ。こんなとき、抵抗したってあんまり意味がないのだ。少なくとも、私の力では。
昂っている彼に対して。
端正な顔立ちがおっさんの腕を咥えているところだなんて、たぶん見るからにおかしい。こんなおかしさを軸にして、私たちの旅はまわっている。
ああきっと、あの果物の中身が本当はお酒かなにかだったんだ。だから私たち、ふたりとも酔っているんだ。そういうことにしておこう。そうでもなけりゃ、やってられない。こんな気持ちを汲み取り返してくれよ。頼むよ、曽良くん。
君のすることって、突飛なくせに遠慮がないんだから。わざとなのかそうじゃないのか解らないけど、私はいつだって拾うのに必死で、頑張ってかき集めて、感じて、感じて。それでも、伊達に長く付き合っちゃいないはずの君は、易々と私の想像を飛び越えていく。
そうして私のことをいっぱいに満たすんだ。
曽良くんが、私の内を満たすかわりに、私の中身を奪っていく。唇で皮膚をのぼっていって、ついには口を吸いはじめる。やわらかい場所を狙って舌先でこねくりまわすのだ。
まるで果実を味わうように。渇きを潤し、なお、もうひとつと欲しがるかのように。
「芭蕉さん」
「う、うぅ」
「喉が、渇きました」
「わた、し……も。でも、こんなんじゃ」
ないのに。
曽良くんは有無を言わさず、今度は私の首を伝っていく汗へと舌をやる。ひと口ひと口、念入りに転がして味わっているみたいだ。
唇を通した欲情は、やがて喉仏へもあたり、揉むようにその場所を撫で舐った。人体の急所を好き勝手になぶられ、それでも私は、やはり何ひとつ咎めることもできずに呻く。
「あ、ぁ、はぁッ」
「……あまり煩くするようだと、また口を塞ぎますよ」
「だ、だってそんな強くっ……吸うな、って! ひン、す、吸わないでえぇッ」
ようやく口から言葉らしきものを紡げた。
それなのに、曽良くんの両手はとどまらない。片方で私の身体を支えて、もう片方で私の着物の隙間に入り込んで、それはもう色んな場所を遠慮もなしに揉みしだく。果実から果汁を搾り出す手つきで。
こんなの、違うじゃないか。おかしいじゃないか。私から搾り取られるものだなんて、汗と、涙と、声と、それから。とにかく、そんなものぐらいだ。
痛い。こそばゆい。恥ずかしい。ひどい。何もかも、お天道様の下ですることじゃない。
でも、曽良くんには解ってるんだろうな。私が必死に逃げ出そうとしていて、それでも逃げられなくって、逆に溺れていくんだっていうこと。黙ったまんまで見通してるんだろうな。
曽良くんは、ずるい。だから私も彼に対して遠慮なんかしない。
それでも私だって。君がそれを解ってるんだっていうことぐらい、きっと面白がってるんだっていうことぐらいなら、こうして気付いてしまえるんだから。
もうちょっと頑張れば、おあいこにだってなれるはずなんだ。
そして、「そうですね」なんていう望ましい返事が聞こえてくるはずもなく、曽良くんのどこか楽しげな言葉がただ響く。
「ほしい、だなんて。欲張らないでください、芭蕉さん」
彼がひどく昂っているときのそれだった。
「僕はもっと渇いているのに」
舌なめずりに代わる声色。
「……ほら。そう硬くなっていたら、ちっとも漏れてこないじゃないですか」
笑顔もないのに甘く誘われ、そこからまた唇を塞がれる。
かすかな蜜の味をおぼえた。私と曽良くん、それぞれの粘膜を染めて未だに尽きない、だからどちらの味なのかも定かではない。
あふれるほどに瑞々しい。どんどん甘くなっていく。本当に酔ってとろけてしまいそうな、果実の匂い。
そこから先は、あんまり思い返したくない。とりあえず尚更に喉が渇いたっていうことだけは、間違いなかった。
だいたい、果物なんて瑞々しいばっかりじゃないんだよ。甘くってべたべたしてるんだ。なのに渇いて、もうひとつ欲しくなるなんて。人間の本能ってどうかしてる。
私だけがおかしいんじゃない。もしも私がおかしいんだったら、曽良くんだって絶対におかしい。皮から種までおんなじ実を食べて、おんなじ果汁に満たされたのに。それでも渇いて、一緒に渇いて、こうして揉みくたになってるんだから。おあいこだよ。
ああ、そうだとも。私と君はおあいこになるんだ。
本音では勝ちを譲りたくないけど。ひとつだけしか認めないって言い張る、負けず嫌いの君だけど。せめておあいこぐらいなら、考えてくれたっていいだろう。
ぐったりとした私の体を背負って歩いてくれたのは、結局のところ君だったけど。水筒を空にしたときだって、足首をひねって腫らしたときにだって、思い出してみればそうだったんだけれども。
それでも私、敗けてはいないんだからな。
何にって。
曽良くんが相手なら、もうこの際なんだっていいよ。