僕の掌が芭蕉さんを叩く。乾いた平手打ちは、ぱしん、とよい音をあげた。
「曽良くん、いたいっ」
いたい、いたいよ、いたいじゃないかと叩かれた彼は訴える。
そして僕はこのように応える。
「芭蕉さんがいけないんです」
そうですね、あなたがいけません。街を歩いていて僕ではなく菓子売りの方へついて行きそうになったり、大道芸の気配があるかと感じればそちらに向かおうとしたり、限られた旅費を使ってしまいたいと言って欲しがるものがやけに高価な花火だったり。
罪あるあなたを断つための、僕の手ですから。
「曽良くん、いたいよ。いたいんだよ、君の手は」
「僕の手が?」
「いたいんだってば」
「ええ。僕の手は、痛いでしょう」
痛みがなければ罰たる意味もないだろう。
芭蕉さん、あなたがいけません。あなたの羽がきちんと飛んでいけるようにと、支えてやるための手ですから。
込められる僕の力は強く、痛むこととてあるでしょう。
あなたのための僕の手です。だから必要であるならば、酷使も自壊も厭わない。
あなたを打ってこの掌に得る波は、残る熱は、そして何よりあなたの頬を、皮膚を叩いて響く音は。
なんと心地の好いことか。
もう一度、ぱしんという音が鳴った。
「曽良くん、いたいよ……いたいんだよ! 君の、手」
「然るべきことでしょう。いたむのは、叩いてやっているからです」
「いやだ、もうやめて! なんにもしないでよッ」
芭蕉さんの叫び声が聞こえる。彼の両目は、かたく閉じられていた。耐えるようだった。
(何もしないで、いいのですか)
再び振り上げていた掌を、ゆっくりと降ろす。
彼は僕のそんな様すら見ていないのだけれど。
「いいでしょう。もう、気が済みましたから……では」
続けてそっと踵をかえす。
怯えて縮こまっている芭蕉さんは、僕の背後で畳の上に座ったままだ。
そこから僕が歩み出そうとすると、ごそ、という衣の擦れる音がした。
「ま、待って、曽良くん」
「……なんですか」
彼はどうして僕のことを呼び止めるのだろうか。
よくわからない。芭蕉さんというのは、子供のように無意で気まぐれなひとなのだ。
「なんで、どっか行っちゃうんだよ。置いてかんといて」
「なら、どうすればいいんですか」
「ここにいてよ!」
「芭蕉さんをこれだけ罰して、もう気は済みましたから……」
大体にして、何もするなと訴えたのは芭蕉さんの方であるというのに。
「で、でも。それって、私のため、なんだろ?」
「そうですよ。また殴ってほしいんですか」
また、殴られるようなことをなさるお積もりなんですか。
ついでに愚かなひとでもある。解りきっては、いるものの。
「どうしてそこまで……思うがままに生きてるだけなのに。君には怒られてばっかりだ」
振り向いてやって確かめると、芭蕉さんは叱られた子供のような表情をしていた。膝を抱えて見上げてくる姿がなんとも頼りない。
そのくせに。
「ここに、いてほしいって言うのに。それは叶えてくれないの」
解っているのかいないのか、僕のことを試すような物言いをする。
「……お望みならば。僕は、あなたの弟子ですから」
ここにおいては、僕だけが。彼の気まぐれにも我が侭にも、付き従ってやれるのだ。
ここに至って、僕だけが。彼を叱ってやる者にもなれる。
「……そんな理由じゃあ、厭だ」
しかし芭蕉さんの表情は、ぎゅうと歪んでしかめられた。
「いやだ、曽良くん。私が一緒にいたいのは、河合曾良なんだよ」
「だから。僕でしょうが」
「君だけど、君が君としていないようなら意味なんてないんだ。あと」
「あと……?」
「あんまり、痛くしないでほしいし……叱る言葉も、もーちょっとこう、柔らかに……」
(…………バカな)
呆れ返らせてくれる、という気持ちが何よりも先んじた。このひとは僕から、いったい何を得たつもりでいるのか。
「それでは、芭蕉さん。あなた、僕の話を聞かないでしょう」
「き、聞くからっ」
「もう騙されません」
「聞くよ! これまではともかく、これからを見てよっ」
しかも幼い言い訳をする。
芭蕉さんには説得力がない。こんな風に口へ出しても、懲りずに繰り返すのに決まっている。
だから。だからこそ、僕はこの掌をもって。
「ずっと、おんなじままだなんて言いきれないだろ?」
「……そうですね」
僕とあなたとも、その通り。
しかしあなたが僕を隣に欲するうちは、僕を認めてみせるうちには、僕の方にもここを離れていく理由がない。
けれども。もしもあなたが本当に僕のこの手を撥ね除けて、僕に価値などないのだと、何もいらないと言うのなら。
その羽は、いたむ荒縄など無かろうとも動いてわたることだろう。
遠くへわたる。僕には見えないような場所へと、飛んでいく。そんなあなたへと僕は、きっと何も。
(しない……と)
本当に、言えるのだろうか。
(僕が本当の意味で、あなたのことを傷つける日の)
来ないだなどと言いきれるだろうか。
ずっと同じ、ままだなどと、どうして言いきれるものだろうか。
「……芭蕉、さん。ここにいてほしいのなら、何か句でも詠んでください」
僕は立つ位置から動かぬまま、今度はゆっくりと腰を降ろした。
「えー? ど、どんなのができても……怒らない?」
芭蕉さんの方は更に身を縮こめる。
「良い句を詠みなさい。罪は断ちます」
「打つってことじゃん!」
「良い句を詠めばいいでしょう」
「やめてくれよぅ。私、プレッシャーには人一倍弱いんだから……」
しょんぼりと息をつく俯き姿は、飼いならされた犬か何かのそれのようだ。
「句会のときだって、同じようなものでしょうが」
誰もがあなたに期待している。どんなに愚かでも俳聖なのだと、思い知らされるその場面。
抱く言葉と世界とを、ただ噛み合わせることさえ出来れば、あなたは。
(……あなたは、いつだって飛び立てるのに)
新しい空へ。
ここで暴れて止まないあなたと、鮮やかに羽を広げるあなた。
僕はいったい、どちらを欲しているのだろうか。
(『どちら』を?)
どちらかを。
選ばなくてはならない理由が、果たして何処にあるというんだ。
「詠みなさい。芭蕉さん」
「うう、曽良くんの……目が怖い。なんて」
「では、あちらを向いていてやりますから」
「そこまで!?」
何でもよかった。
感嘆なら良い、怒りでもいい、僕の中身を塗り直してほしかった。
松尾芭蕉。彼の言葉は僕に対して、そのどちらともを与えうる。
「芭蕉さん、俳人でしょう」
「曽良くんだって俳人じゃないか……」
「しかし、あなたの弟子ですから。句を聞く権利もあるはずです」
「こんな時だけ! そういうことを言うよなぁ、君はっ」
身を乗り出して、彼は憤る。息をつく暇もない喜怒哀楽だ。
こうした感情をもって彼は、詠む。思うがままに。どうにでも。
彼の言葉のそのすべて、彼が構築する世界というもの。
「……じゃあ、あっち向いててよ。曽良くん」
「解りました」
抱えた膝を解きながら、とがらせた唇で僕の名を呼ぶ。僕は動かぬ掌で、その残響をそっと掴んだ。
「でも、ここにいてくれよ」
「……」
「曽良くんってば」
「…………」
「ねえ!」
「解っています。しつこいおっさんですね」
「だって曽良くん、私を置いて行こうとしたんじゃないか!」
「行きませんよ」
行きませんよ、僕は。僕は、ね。
僕がどこかへ行くのだとしたら、それはあなたが僕の手という名の枷を打ち破ったときでしょう。
あなたに否定されるのならば、僕の旅など容易く終わる。あなたの旅に付き従うという、この僕の旅は。
きっと、崩れるように終っていくのだ。
長い旅路のこんな半ばにあなたと在って、気ままに生きるあなたの脚を、羽を制しながら、あなたの呼吸と声を聴く。そのようにして前へ、前へ。
あなたと繋がるこの掌からはじまって巡る、僕の旅。あなたとの今。
たった今、すべて。
こんな痛覚を与える枷などは、生かすも殺すも、あなたの細い掌ひとつにかかっているのだというのに。
「曽良くーん、そこにいてくれよー? いきなり走り出したりとか、そういうのはナシだぞ!」
「…………」
「私を置いてどっか行ったらダメだからね!」
なぜ、そんな言葉を作り出してしまうのだろう。
情けなくて。愚かで。
やさしい。
僕を戻れないものへと覚醒させていくための魔性。言わば何よりも特別なまじない。
飼いならされているのは、あるいは僕の方であるのかも知れない。首輪から繋がる鎖をあなたへと結わえて見下し、早く引きなさい、と不遜に繰り返すのだ。
そこに、縋っているのだろうか。僕、は。
「……そんなことよりも。良い句は出来そうですか」
「うーん、うーん……」
「どうなんですか」
「君の手のことについてでも書くかね」
芭蕉さんは取り出した筆と紙とを弄びつつ、思案を巡らせている様であった。僕の視界に彼の姿はなかったが、背後でそんな風にしている姿が意識のうちへ映し出される。
「僕のですか」
「そうだよ、隙あらば私のことを引っ叩いてくれちゃって……真っ赤になったりして、そのまんま戻らなくなっても知らんからね。せっかくのきれいな手だっていうのに」
本当にこのひとは、後悔をすることになるだろうと思わないのだろうか。解さないのだろうか。
まったくもって思うがまま生きて、僕の隣に生きて、今を。いつであろうと広げることのできる翼とともに、生きて。
「……そうですかね」
「うん。私、君の手が好きだな」
この僕のすべては、あなたを断ちうる掌であるのだというのに。