髪の毛に触れる。
彼の、髪の毛に触れる。
おそらくは僕のそれよりもやや細く、その分だけ柔らかく、少しばかり枯れて茶色がかっている。前髪は額の半ばまで、後ろ髪は首筋へあたるほど、短くして切り揃えられたものであった。
道中にこれを整えてやるのは、僕の掌の役目だ。
指先をすべらせ、皮膚へと触れる。
そこもまた、元よりだろうか老いてのことか滑らかに乾いている。首筋を撫でられることがこそばゆい様で、彼はぴくぴくと身体を震わせた。
微かな震動が、触れているこの指にも伝わってくるのだ。
指先をゆっくりと離してやる。
解放のためではなかった。喉という彼の急所をあえて逃してやった僕の指先は、くたりと降ろされた彼の腕を持ち上げ、やがてそこから掌を捕まえる。表面をなぞるとその身体はまたも震えて、あぁ、と小さな声があがった。
僕の聴覚は、その響きを過たず拾い上げる。
僕と彼とは同様の生き物である。ひとの呼吸がふたつ分、放たれて同じ空気の中へと混じり合う。
その熱を感じながら、彼の指先へ口づける。
力なく伸びる細さや薄らと寄るしわを丁寧に愛でる。僕とは異なった色合いの、切り揃えられた爪。気に入っているつもりだ。
僕と彼とは、まったくもって異なった生き物である。
髪の毛に触れる。首筋へ触れる。掌をなぞる。指先を愛でる。
梳く。弄くる。噛みつく。嬲る。愛撫らしきものを施す。
すべてへと触れる。
ああ、それでいて、突き抜けてしまうことはできない。舌が歪んでいくようだ。
あなたと接するときには、何時だってそうだ。触れる場所すべて、そこから始まって僕のすべてが、少しずつおかしくなっていく。
「芭蕉さん。目を閉じていないで」
彼の身体を支えながらに、僕は命じた。
「瞼を開けなさい」
すると些かの逡巡の後、おそるおそる、彼の両瞳がのぞいた。
その色彩もまた異なっている。焦がしたかのような茶色。僕と比すれば、薄い。
「開、けたよ」
「……そのままで」
ふたつの焦茶は僕を映して、隠しきれない恐怖に震えている。
その場所は未開地である。いつか、この舌先で侵してやるのも悦いかも知れない。
眼球など舐れば彼は尚更に怯えるであろうか。緩やかな痛みに首を振り、止してくれと訴えるのだろうか。これまで誰にも、きっと誰にもそんな風にされたことは無かっただろう。
(ならば、さっそく試してやろうか)
それとも今日は、こじ開けるところにまでは至らないでやるか。
まずは眉へと唇をおとすと、芭蕉さんはその肩を縮こめる。
構わずに、位置を移して瞼の皮膚へ舌を這わせた。細かくざらつく粘膜で睫毛の生え際をなぶってやる。
「……ったい、ぁ、曽良くん……いた、いっ」
すると彼は、思うよりも早くに弱々しく鳴いた。
柔らかな場所を一方的に侵されていく感覚は、不安定と羞恥とを助長するのだろう。いつ壊されるかも解らないという仮定が彼の内を染め上げていく。そうして、「いたい」という言葉にすべてが集約されるのだ。
あなたは僕に訴える。数々の具体的な苦痛に対して、情けなく泣き叫んではすぐ駄目になる男が。繋いでいる手をほどかれてしまった子供の様な表情をして、僕へと縋りついてくる。
この指が、この舌が与えるものを受容しながらに、救いを求めることもする。
(……おろかだ)
それでも彼の傍らには、たったいま僕のほかが無い。
「痛いんですか」
「い、たいよ……曽良、くん」
それはおそらく半ば以上に、緊張と受虐のもたらす勘違いなのでしょう。僕はじゅうぶん柔らかに触れてやっている。
けれども、どうぞそのまま震えていてください。
「我慢しなさい。あなたのためです」
ああ、そうですか。いたいんですか。
芭蕉さん。
それこそ、あなたが生きているということですよ。
(あなたが悪いんです)
本当に。
なぜなら僕が伸ばした枷を、そちらから断たずにいたでしょう。悦んで咥えてみせたでしょう。飼いならされた犬かなにかが、餌を待ち望むその様のごとく。
(あなたが、悪いんです)
もしも不幸せだというのであれば。
それは、あなたが。
「いたいよ、曽良くんっ……とけそう、だ」
「……どこに」
「…………」
問うているのに。彼は、我が師は、何ひとつ応えようとしない。
「どこにどうやって、溶けそうですか。芭蕉さん」
今更どんなつもりでいるのか。苛立ちを伴い、問いかけを重ねる。
「僕のことなど構いなく……いってしまうのですか」
すると芭蕉さんは、隠さず不安げにして見上げてくる。
「……君が、そう、してるんじゃないか」
ああ。この、顔。
「……ええ。そうでしたね」
悪くない。
「そうでした……」
そこから黙して、芭蕉さんの身体を緩く抱きしめる。
枯れた萌木の色の着物は、脱げかけながらも未だ纏われたままであった。これを解いて暴いてやるのも、他ならぬ僕の掌の役目。
「芭蕉さん。どこへいくんですか」
短い静寂を、僕の方から破ってしまう。なおも彼へと問うことを続けた。
「どこに行こうというんですか?」
「そら、く」
「何処へだって、たいしたことではないでしょう」
異なった匂いが、体温が、質量が、あまりにも近く息づいている。
「僕がついていれば」
ここからどんなに強く抱いても、交わることはないものの。
「ついて、いてやれば。僕が……」
「曽良、くん」
加えてそこに、異なる声が、僕の名前を呼ぶのであった。
「……そうだね。君が……一緒、だったら」
良いんですか。芭蕉さん。
(この手があなたを、痛めつけるのだとしても?)
いたみと隣り合うその選択で。構わないのだと、本気でそんな風に思っているんですか。
「なぁ。曽、良くん」
彼の指先が、僕の首筋を愛おしげに撫ぜる。異なった存在、他者の皮膚へと触れる感覚。
僕ではないもの。
その温もりは、今にも壊れそうに柔らかでありながら、にじむような『いたみ』を同居させている。
(どこへ行くのですか)
何処にまでも、今ならば伴いましょう。見たいものがありますから。そのためにも、伴いましょう。
けれども時が過ぎるのにつれて、僕はこうして深みへ嵌り、あなたとの繋がりを締め上げていく。あなたが赦したこの掌から。
荒くなる吐息はあなたのものか。
(それとも、僕のものなのか)
これは現か。
(夢ではないのか)
夢だとしたら、いつ終わる。現であっても、いつかは終わる。
(どうして……)
どうして。
「曽良くん……? ど、したの?」
どうしてここへ至ってまでも、あなたの指先は僕へと伸びて、緩やかに頬をすべるのだろう。
(感じる。また、ここに)
あなたばかりを感じている。僕のすべてが、おかしくなるように導かれる。
そうして僕もまた、導かれて自らで向かっていくのだ。あなたの在る場所へ。
『曽良くん』。
僕を、あなたへと繋ぐための記号。
唇が。名を呼ぶ、音へ、縋りつき。
あなたが生まれたそのとき、僕は未だこの世界に在りませんでした。
そして僕と出会うそのときまでのあなたを、僕が知ることはありません。
だからこの先、あなたを生かすための権利と、いつの日か起こりうる、あなたのお終いを支配するための権利を。
僕にください。
あなたが悪い。僕のこの掌を欲してしまった、あなたが悪い。
それだから僕はこんなにも、こんなにも増して、あなたの罪を断つことへ拘泥するのだ。
戻れない。戻りたくもない。
あなたの、いたみ。僕のいたみ。
異なっているもの。それだからこそ、触れて溺れる。
僕はあなたの疲れた爪先にだって、痩せた腹にだって、心臓の上にだって口づけてやれる。侵蝕することが出来るのだ。
ふたつ、どこにまでも至る。
何処へ至れども、ふたつ。
(ああ、僕は。さび、し)
いいえ。芭蕉さん。
「なんでも、ありません」