抱き枕という名の寝具を語るにあたっては、実に紀元前の時まで遡るべしと言われている。
 それはともかく元禄の頃。名高き俳聖、松尾芭蕉翁にも、抱いて眠るを愛してやまない柔らかな『もの』があった。



「しかし芭蕉さん、それがないと眠れないんですか」
「眠れんよ!」
「胸を張るな!」
「あうちッ」


 河合曾良を伴っての、東北・北陸を巡る旅。その道中にて、野外の夜。


「まるで枕のような扱いですね。その、綿」
「綿と言うなよ、マーフィーくんと呼びなさい。この子は私の友達だけど、夜には枕にもなってくれるんだよ」
「……便利なご友人ですね」
「なにその言い方! これもまた友情なんだからなっ!」
 行く先々において人の世話になり、宿を借りつつ、歩んで進む旅だった。そうはいっても宿が無い夜は、野に場所をもらって休むこともある。
 どちらかといえば暖かな時節であるから、そこまで辛いということはない。言ってしまえば地面は硬いが、できうる限り休まるようにと、紙衾(かみふすま)なども持ち歩いている。携帯用の紙布団。野宿など、元より覚悟の上である。

「綿も残念な気持ちでしょう。芭蕉さんの抱き枕になるのでは」
「なんだよ、なんでだよ」
「爺のにおいが体の芯まで染みついてしまいますから」
「えー。イヤじゃないよねー、マーフィーくーん」
「語りかけるな!」
「あうつッ」



 屋根のない夜の暗闇の中、草上へ敷いた紙衾に頼り、ふたりは体を横たえる。

「そもそも、単なる布でしょう。抱いて寝る意味がわからない……」
「この心地よさが解らんかねぇ。あ、それとも曽良くん、人肌の方がいいの」
 芭蕉は楽しげにふふふと笑った。
「あー若い、うらやましー」
「いやらしい発想をしないでください」
「照れるなってぇ」
 すると、曽良が呆れた風に溜め息をつく。
「人肌の方が好いのは、芭蕉さんの方なんじゃないですか」
「私? 私はもう、そんな歳じゃあないよ」
 ねえマーフィーくん、と、冗談めいてもう一度。

「そんな歳じゃないというのは、どんな歳ですか」
「……言わすなよ。君よりも歳ってことだけど」
「そもそも芭蕉さん、解っているんですか。人肌へ自分のにおいを染み付ける……その、意味」
「はぁ?」
 曽良の声色は芭蕉の言葉へ、ゆらゆらとしながら被さってくる。
「その意味って……そりゃあ…………それも言わすなよッ」
「解っているんですか」
「解っちゃいるさ! それに私だってもうちょっと若けりゃ、人肌にもって考えるよッ」
 ややむきになりつつも芭蕉は応えた。


 すると、灯りのない夜闇のうちに、『何か』がぎらついたのではないかと。錯覚する。
 曽良の。整った、顔立ちが。

「芭蕉さん」

 欲の気配に、ゆがんで。


「僕なら、御免です。あなたの抱き枕になるだなんて」

「……そ、う?」
「あなたのにおいに支配されるだなんて」
「……嫌、なんだ」
「御免ですね。僕なら……」
「あ……そう」
 否定されているのだというのに、芭蕉の鼓動は速まっていく。縫いぐるみを抱く腕をぎゅうと強めた。
 聴覚を通る響きは日々に聞き慣れているはずのものだ。そうであるのに何故、どうして、こうまでも艶めいて残るのか。


「僕ならば、染みつけるのに」


 そしてもう一度、どくん、と鳴らす。

「殊に、人肌には。解りますか」
「わ、かる……よ」
「それなのに、図々しいひとですね。芭蕉さんは」
「なん、で? 私が?」
「解らないんですか」

 互いの表情の知れぬ中、ふたりの会話は続いているのだ。
(……なんだ、これ。こんなの、こんな、の)
 こんな空気は、おかしい。
 それともこれは夢中であろうか。はい、ともいいえ、とも返しかね、ぱくぱくと口を開閉する芭蕉は、いま。
 からだの芯からわき起こるような、飢えと渇きを感じ受けている。



「……教えて、くれないの?」

「教えてほしい……僕にですか」
「いやなら、いい……けどさ」
「そうですね。気が向いたら」
 曽良はどこか愉しそうに含むと、唐突に、芭蕉の腹のあたりをひと撫でしてきた。
「うひゃっ」
「今日はもう、休むことです。芭蕉さん……明日には」
 ゆったりと指先を離していきながらに、続ける。
「宿へ着けるといいですね。早起き、してください」
「あ、ぅ、うんっ……」
「紙衾は、いつものように僕が畳んでやりますから」

 いいですね。
 という、少しばかり強い響きを終いにして、曽良の言葉は途切れた。



 芭蕉はそこへ何も返さず。
 返せず、ひどく翻弄されたままでいる。ただただ己の抱き枕を、きゅうきゅうと締めつけるばかりである。
(どうしよう、どうしよう、マーフィーくん、どうしよっ……)
 まさしく抱いて、縋るがごとく。





 夜はこれからなお深まっていくのだというのに、どうしても瞼を閉じることができない。
 そこには曽良が焼きついている。見えるはずもない、それなのに見えてしまったような気がする、彼のぎらついた両瞳。
 欲に色づく顔立ちが。
 瞬きひとつでも蘇る。芭蕉のうちに焼きついて、既に支配を始めている。

 逃れる思いで身を押し付けた紙衾にすら、曽良の指先のつけた折り目が、痕として残されているのであった。






 さて、抱き枕という名の寝具を語るにあたっては、実に紀元前の時まで遡るべしと言われている。
 それはともかく元禄の頃。抱くのは布に限らぬと、知ってしまったふたりの男が、次にはどんな眠りへつくのか。
 紙の衾の折り目とて、知るはずもないところではある。













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