この時節はどこにいても空気が冷たい。なにもない場所から、しんしんと凍る音が聞こえてくるようですらある。だから私は、ああ寒い、これは何もする気が起きない、という気持ちをもって部屋の中に縮こまっていたのだった。
 つい、先程までは。

 ふと空を見ると、そこにちらほらと揺らめくものが有る。『それ』は緩やかに、薄く視界を覆っていく。
 こうなれば籠ってはいられなかった。部屋での格好のまま縁側から飛び出して、自ら『それ』に包まれることで深く深く『それ』を確かめる。
 『それ』というのは、この冬においては初めてのことになる、降雪だった。





 ああ、やった、ついに来てくれた。それにしたって、ずいぶん待たせたじゃあないか。この焦らし上手め。
 雪が降るんだ。あ、違った、もう降ってる。
(……私がここにいる間に!)
 そう、この芭蕉庵に在って降り始めを迎えることができたのは、今回が本当に最初になる。これまでには、外に出ている間にちらほらと来てしまったりして、慌てて引き返すという場合もあった。だから今年こそはと思っていた。
 ずっと待っていたんだ。積もるかな。

(積もってくれよぅ?)
 思わず屋外へ出てしまった私は、薄着に被さってくる外気を身を震わせて受け止めた。ふう、はあ、と漏らした吐息が白くなる。今日というときの肌寒さを物語っている。
 いいさ、今日ぐらいは。我慢できる。我慢することにした。
 自然現象のひとつふたつに子供のような一喜一憂を、と言われればそれまでだけれども、それだって構わないのだ。私は俳人なんだから。それに、ちょっとぐらい風邪をひいてしまったって、この感動は失せていきやしない。
 句にだって詠もう。重なっていくこの煌めきを、見守っていられるひと時のこと。


 この庵に降る雪。
(しかも、初雪……)
 待ち焦がれていたと言ってもいい。
 ああ、今日はいい日だ。こんなにも寒いのだというのに、心の方はいくらでも弾む。


 雪は好い。それだから、冬はいい。
 四季というのはよいものだ。
 雪は好い。よく知っているはずの世界を、また新たな色彩へと塗り替えてみせる。しかも決して単なる白色には限らないというのだから、不思議なものじゃないか。
 雪は、白い。そして透明でもある。ながらに、その細かい結晶の一粒のうちへ、どこまでも広い世界を抱いている。






 さて、翌日にもなると降雪はやんだ。
 止んだとはいっても、ただ去るのみではない。そこかしこの景色を実に上手いこと塗り替え、確かな名残としていく。
 ああ、しかし、すっかりと積もったもんだなあ。水仙もほら、こんな風になって。
(……葉が。重みに耐えかねて、たわんでる)
 少しばかりかわいそうな気もするとはいえ、ここにしかない趣がある。

 どこもかしこも雪色で真っ白になっていた。見慣れた世界が、別物のようにして広がっている。
 はく息もどうやら昨日より白い。冷えはじめた指先にはあ、と吹きかけると、視界がひととき曇ったように思われた。


 ああ、混じりっけのないこの感覚、何とはなしに彼のことを思い出すなあ。
 曽良くん。
 の、印象もこう、白い感じだ。そして雪みたいに、うん、クールなんだよ。でも、それだけじゃないっていうところも雪とおんなじ、かね。


 うぅん、それにしたって曽良くんのやつめ、今頃どうしているんだろうか。
 ああ。泊まりがけで出かけているんだっけな。
 まったく、こんないい日に訪ねてこないだなんて。まあ、もともと自分の気が向いた時にしかうちに来てくれない、そんな曽良くんではあるけどもさ。もったいないね。

 来ないかなあ、曽良くん。いきなりでもいいから。
 そうしたら肴でもつくってもらおうと思うのに。曽良くんの料理は美味しい。まあ、私ほどじゃあないけどね。だって私が師匠だもんな。俳句のだけど。
 ああそうだ、せっかくだから雪見酒にでもしよう。
 この庵での生活が始まってからはじめて、初雪の降り始めに立ち会えた日、なんだから。その上に積もってくれたともなれば、言うことなしのお祝いごとだ。
 お祝い。お祝い。誰と、が好いかといったなら。
 まずはやっぱり、曽良くんがいい。


 彼は雪だ、とはしゃぐ私を、きっと叱ってみせるんだろう。辛辣なことだって、たくさん言うのに違いない。だって曽良くんは曽良くんだから。なんていうことは解っているのさ。
 でも、それでも曽良くんは。私がこの雪に何を感じているか、どうしてどれだけ嬉しいのか、その喜びをどんな風に表したいのか、そういうことを、誰よりもよく確かめてくれるんだろう。
 性格も句作も真っ直ぐな彼は、私のことだって真っ直ぐに見ておいてくれる。そうして、気が向いたときには褒めてもくれる。厳しいけれどもお世辞はない。
 そういう弟子だ。

 はやくこいこい、河合曽良。






 そのようにして待ち構え、一日。そのまた翌日のことである。
 前回から数えてどれくらいぶりになるか。私が誘いに行くよりも前に、曽良くんの方から庵を訪ねて来てくれたのだった。
 幸い、雪はまだ溶けていない。



「やあ曽良くん、遅かったじゃないか! 待ってたんだよっ」
「……そうですか」
「なんか作って!」
「は?」
 彼の右腕には、示すようにしっかりと抱えられた何らかの包みがある。本人は決してそうとは言わないけれども、これはお土産の合図なのだ。そして、丸みのある包みの場合、その中身は食べ物であることが多い。
「お酒も出すからさ、それで肴っ……のすゥ!!」
 すると。
 私の眉間に突如、手刀がめり込んだのであった。


 思わず仰け反ってしまった。かなり重かった。数秒を過ぎても未だ、じんじんと痛んでしょうがない。
 いきなりなんてことをしてくれるんだ、曽良くん。さすがだな、曽良くん。マジで痛い。

「やはり芭蕉さんには手刀が効くようだ」
「そ、そんな分析を、きみ……」
 平らにした掌を構えたままの曽良くんは、冬の外気にも負けないくらい涼しげな表情をしている。
「図々しいですよ。客にはむしろ茶を出すものでしょうに、なぜ僕が?」
「ええと私は、これからちょっといいものを作るんだよ。忙しいから、君に頼むというわけだ」
 酒ならうちに買ってあるしね。あとは肴と、それに加えて、とっておきのもの。
「いいもの?」
「フフフ、なんだとおもっ……」
「微塵も期待できませんけど」
「酷ォ!」

 ああ曽良くんのやつ、ほんとに期待してないな。まあ私も、期待してもらえる、っていう期待はあんまりしてなかったけどね。負けてない、負けてないぞ曽良くん。
 それに。驚かせたいんだから、これでいいんだ。


「ほら、芭蕉さん」
「……ん?」
「台所を任せようというなら、仁王立ちしていないで道をあけてください。帰りますよ」
「へ、は、か、帰らんで! 帰らんといてっ?」
「では、どかしますよ」
「ほら、どく、どくからっ」
 ここで踵を返されたのでは堪らない。どかす、という言葉にも、いやな予感がはしる。
 私は慌てて、端の方へと大袈裟に避けた。ああ我ながらに情けないこと。
「相変わらず変なにおいがしますね、ここ。冬なのに」
 これも、曽良くんに容赦がないからだ。
「うう、するもんか……変なにおいとか、せえへんもん…………ねえ。曽良くーん」
「なんですか」
「雪見酒にしようよ。君を待ってたんだよ」
「……また、そんなことを」
 すると、無表情が少しばかり揺れて、やや呆れたような声色が返ってきた。

「雪が降ってから暫しあったでしょう」
「あったけど?」
「僕を待たなくとも、呼べば誰かが肴を持って来てくれたでしょうに」
「……ほんと。呼ばなきゃみぃんな来てくれないんだから、困っちゃうよ」

 そうなんだよ。呼ばなくたって足繁く通ってきてくれるのなんか、君ぐらいのもの。
 たまに他の弟子が訪ねてきたかと思えば、なんだ河合は留守ですか、と茶化されてしまう有様だ。

「だったら、呼べばよかったんです」
「……だって。せっかくの初雪なんだよ……いや、初雪なら何度かあったけど、今年は私が庵にいるとき降り出したんだ。初めてだったんだぞ」
「それで?」
「祝いたいじゃないか」
「……どうやって?」
「君と!」


 すると。曽良くんは、何も返してくれない。
 あれ、嫌だったのかな。そんなに嫌でしたか。
 でも私にだって、そのぐらい望む権利はあるはずなんだ。あるんじゃないかな。だって私は君の、曽良くんの、お師匠様なんだし。俳聖って呼ばれるくらいには偉いんだし。
 そんなことを考えたりしていると、曽良くんが唐突に閉じていた唇を開いた。


「芭蕉さん。芭蕉さんのようなひとは風邪をひかないとよく言いますが、あれは迷信なんですよ」
「ええー!? ……そ、そう遠回しにバカにすんなよっ!」

 うう、まさか。そう来るだなんて。予想外にも程があるんだけど。
 でも、よく考えたら予想を超えられちゃうのなんて、いつものことか。負けそう、負けそうだぞ松尾。
「もういいっ。早くなんか作ってよぉ」
 曽良くんのばぁか。料理上手。まあ、私だって料理は自分でする方だけどさ。曽良くんにだって負けてない、って思ってるけれどもさ。家事全般、嫌いじゃあないけど、さあ。
 でも、曽良くんのつくったご飯でお酒を呑みたい。そういう気分なんだよ。

 ずっと、そんな気分でいたんだ。この雪が降り始めたときから。


「……ええ、分かりました。ついでに変なにおいのする茶碗で、変なにおいのする茶も淹れてやりましょう…………僕の分だけ」
「そんなこったろうと思ったァ! ……あー何日かぶりだけども、やっぱり相変わらずの曽良くんだよ」


 君のことを待ってたんだ、私は。


「こんなんだから私、君のことだけは何があったって間違えやしないよ。きっと」
「僕も間違えませんよ、芭蕉さん。変なにおいがするんで」
「それもう四度目!」
 どうして妙ににおいへこだわるの、この弟子。そういう趣味だったんだろうか。まさかの新発見だよ。

「…………芭蕉さん、奥は大丈夫なんですか……台所をきちんと掃除していますか」
「も、もう既に奥の方へっ…………してるよー! したばっかりだよ!」



 ああもう曽良くん、すぐに私の先を行くんだから。
 でも、一緒にご飯を食べる気にはなってくれたみたいだ。

「いろいろと足りていませんね。梅干しに、味噌に……」
 台所の方からごそごそとする音がして、曽良くんの声が聞こえてくる。
「……あれっ、そう? そんなにー?」
「芭蕉さん。この雪景色ですが、おつかいに行ってくれますか」
「マジで!? 嫌だよーッ」
 外はすこぶる寒いのに。
 それに雪景色だけなら嫌いじゃないけど、でも、今はあんまり遠くまで歩いて行きたくない気分だ。せっかく曽良くん、来てくれたんだし。

「我が侭なおっさんですね。この根性なしが」
「根性があっても寒いもんは寒いんだーい!」
「ひとまずは僕が買ってきた分を使えますから、いいものの」
「え、ほんと? さーすが曽良くんっ」

 なあんだよ、早く言ってくれればいいのに。曽良くんの冗談は解りにくいんだから、もう。
 曽良くんときたら、まったくもっての曽良くんだ。私を相手に、いつだって先回りをしてみせる曽良くんだ。

「……いいものの。次はどうだか」
「あー、次にはちゃんと揃えておくからさぁー」
「人に頼ってばかりいるようでは、いずれ生き方を忘れてしまいますよ」
「頼ってないよ。甘えてるだけですーっ」
「甘えないでください」
 いかにも無口そうな表情を見せておいて、口の減らない。意地の悪い。
「いいじゃないかあ!」
「いいですか、芭蕉さん。あなたの我が侭に付き合ってやれる人間なんて、滅多にいないんですよ」
 知ってるさ。
「どうせ、僕ぐらいしかいません」

 君じゃない他の誰にだって、こんな風に任せたりなんかしないのに。
 見た目にひどく冷徹で、口の減らない、意地の悪い。そのくせ、ほんとは面倒見のいい。


「こんな我が侭はあまり、しないことですね」
「はいはい」
「くれぐれも」
「解ってるっての」


 私の、曽良くん。





「……あー。いいにおーい」
「まだですよ。当分できません」
「いい匂いだなーって言っただけなのにぃー」
「つまみ食いをしに来そうな気配があるので……」
「なんだよ、つまみ食いしに行っちゃあ悪いかー!」
「童みたいなことは止めてください」
「おっさんだってつまみ食いしたいよっ!」


 なんだよなんだよ、いい匂いさせやがって。ちくしょー見てろよ。君にはひみつであれ、を作って、驚かせてやる予定なんだからな。鬼みたいな誰かさんが、火を起こしてくれてる間にさ。
 ちょっといいもの。すごくいいもの。

 いいもの、だから壊さんといてね。また、変なにおいがするから、とか言ったりしてさぁ。
 あと、私が見てない間に帰っちゃうのもダメだからね。ここにいてね。

 それからふたりで縁側に座って、雪見酒でもしようじゃないか。
 塗り替えられた景色を見ながら。いつかは溶けてしまうけれども、いま目の前を飾ってくれる、どこまでも広い白色を見ながら。ふたり並んで、しようじゃないか。



 今日という日を君と過ごせて嬉しい。君と、君のくれるものすべてと一緒に過ごすことができて、こんなにも嬉しい。
 だから私は、君のこと。ずっと待っていたんだよ。



 心の中でだけ礼をしてから、そんな彼には気付かれないように、雪丸げを作り上げるための算段を始める。













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