※ 死にネタではありませんが、仮定として思わせる描写を若干に含みます。
夢中の底である。
そこにおいて松尾芭蕉は、死んだ。
何らかの理由によって、たったひとつでしかあり得ぬ命を失ったものであった。
その光景を客観的にして見せつけられる。
なんということであろうか。なぜ、どうして、そのような目に。
応えはない。
かわりに絶望を受けた悲鳴がたったひとつだけ、あがる。
同時に、それが夢魔であるのだということを自覚した。
身体は緩やかに覚醒を開始する。
そこから脱してしまえたのだ。
しかしながら、ひどい現実味が残されてもいる。ただひとつの死という、究極の非現実たるその夢の。
(……ああ、そうだった)
どうやら壁に寄りかかったまま、うたた寝をして過ごしてしまっていたらしい。そのためにまさか、このような夢を見ることになろうとは。
起こした身体を更に立ち上がらせようと試みると、そこでようやく、自分が震えているのだということに気がついた。
ゆっくりと己が額に手をあてる。すると熱などの感じられるわけではないものの、汗で濡れた前髪のはり付いているところへ触れてしまった。
まるで全身、自分のものではなくなったかのようだ。
それを引きずってようやくに立ち上がると、ふらりと目前が眩む。
首を振り、そのような感覚を取り払ってしまおうと、更に幾度か繰り返す。そのうちにどうにか、視界をはっきりとさせることだけは叶った。
それから。無意識に伴い、部屋の中をうろつく。
二人でとった部屋ではあるものの、今、ここには自分ひとりの姿しか見られない。
もうひとりは出かけて、自分のことを置いて行ってしまったもので。それを思うと何やら腹が立ってくる。
(帰ってこなければ、いいのに)
いっそのこと。
否。
(早く、帰ってくれば…………)
いいのに。
ふつふつと考え込んでいると、更に落ち着いておくことが出来なくなってくる。
何とはなしに、誤摩化すようにもして、隅に寄せてある旅荷物の山へと手をかけた。開き、引っ掻き回してみる。
鞄の内には涙のにおいをはらんだ縫いぐるみが並んでいる。一体を選び、両手を使って取り上げる。
そして、意識をかけるよりも先に。
そこへと縋っていた。力を込めて、きゅうと抱きしめる。
暫くそのままにうずくまった後、ぱっと腕を離した。
いい歳をして、夢魔などに怯える自分自身が恥ずかしいような気持ちにもなる。縫いぐるみをゆっくりと元の場所へ戻すと、静かに鞄を閉じ直した。
視線を上げる。周囲を見回す。
部屋のうちはどこも乱されておらずに、すべてが穏やかなままである。呼吸を荒げる我が身ひとつを残して、空間そのもの、沈黙を守っている。
硬直する世界。
これを、さびしさとでも。呼ぶべきであろうか。
深い呼吸のひとつとともに、ゆっくりと瞼を閉じた。唇もつぐむとそれで、でき得る限りに黙することとなる。
せめても。
そこからもう暫しが過ぎると、閉じた分だけ研ぎすまされた聴覚の内へ、割り込んでくるものがあった。
男のそれらしき足音が。
咄嗟に理解した。ああ、彼のものだ。ようやく帰ってきてくれたのだ、と。
「ただいまァ、曽良くん! あぶりモチ買ってきてやったから、感謝して一緒に食べようか! ウッホウ!」
すると部屋の中で待っていた男は、静かに応えた。
「喧しいですね。もう少し静かに歩いてください」
「ええぇ、そこまで煩かった?」
「芭蕉さんは気配が煩いので……というか、そのものが。もう」
「……なんか存在ごと批判されてる」
続く声色はしょんぼりとしている。小銭を入れた財布だけ持って出かけていた方の男は、あぶり餅の包みを卓の上に放ると小さな溜め息をついた。
「いいじゃないかよォ。早く食べたかったんだからさあ」
「子供ですか」
「もーっ、あんまそういうことばっか言ってるとッおモチやらんぞ!? チクショー!」
(……ああ)
煩いほどの気配はここに、健在である。間違いなく。
松尾芭蕉はこうして生きている。
部屋のうち、畳の上には呼吸がふたつとなった。
したがって。
河合曽良の悪夢は、今度こそ終局した。