顔中を涙と鼻水でいっぱいにして、松尾芭蕉はそこに立っていた。
「うっうっ……曽良くーん」
よく見れば涙と鼻水ばかりではない。
頬を伝ってぴちゃぴちゃと垂れる雫、その他にも幾粒もの水滴が線をつくった首筋。しっとりとして色の濃くなってしまった着物に、毛先の固まって跳ねてしまっている、やや茶色い短髪。
彼の全身がずぶ濡れている。
「何事ですか」
「つめたいんだよぅ」
なぜ、どうして、などとは疑う必要もなく、冷静に考えてみればそれは仕方のないことだった。
空は曇天、どころではない。とうに泣き出している。
「ひどく濡れましたね」
「……なんか拭くもの貸してくれない?」
部屋の片付けに今の今まで集中していた曽良は、天候の悪化に気付いていなかったのだ。
ところが外から名を呼ぶその声に邪魔をされ、仕方なしにと出て行ってやってみたらこの有り様である。呼び声の主が彼であることは、よく解っていた。曽良が間違えることはない。
「うざいので」
「え?」
決して、ない。
「失礼します」
一息に呟くと、曽良はあっさり戸を閉めてしまった。すると芭蕉が閉め出される。
「あっ、ああ! 何してんだコラァ!」
「うざかったので……」
「せめて手ぬぐいのひとつくらい貸してくれたっていいだろ! あと傘とかっ、着替えとかっ!」
「ひとつじゃありませんね」
「なんだよー! ひどいよーひどいよー」
泣き声がまた大きくなった。
(よくもまあ……騒ぐ男だ)
間にある戸を閉め切ったのだから、ふたりの距離は遠ざかったはずであるのに、途切れて聞こえることも濁って響いてくることもない。曽良はその声を決して間違えない。
(こんなに叫ぶ元気があるのなら、走って帰ってしまえばいいのに)
芭蕉の家とてそこまで離れてはいないはずだ。遠くはない、いや、むしろ近しい。
たしかに曽良は手ぬぐいすら貸してやっていなかったし、雨を降らせているのもまた曽良、ではないが空だ。しかし、それを言うのなら芭蕉だって無実ではないのだ。曽良の片付けを邪魔したのは芭蕉であったし、その声をもって降り注ぐ雨を知らせて寄越したのもまた、芭蕉なのだから。
(この、すぐ先にいる)
曽良は目の前の戸に片手をやって、木の感触を緩やかに撫でた。そこは慣れ親しんだ領域の一部であるのだというのに、普段とはどこか違って感じられる。
あきらめて帰ってしまってもよかろうに、芭蕉はそれをしたがらない。彼は兎に角『してもらう』ことを好むから仕方がない。そこまで子供じみているというわけでもないのだけれど、少なくとも、曽良に対してだけはいつだって我が侭な男だ。だから、甘えにきたのだろうか。構ってほしいというのだろうか。
(まだ、いる……)
このような面倒を、誰に対してもかけようというわけではない。『曽良でなければ』彼はきちんと、泣きながらにも濡れて帰っていったのだろう。おそらく。おそらくは。
師にあきらめる気がないというのなら、とどまらぬ雨がいっそのこと心地よい生温さへ変わるぐらいに、驚くほど熱い茶の一杯でも与えてやろうか。考えながら、曽良はゆっくりと踵を返して戸に背を向ける。
「そっ、曽良くーん! おいてっちゃやだぁー!」
「…………」
焦る大声はもちろんのこと芭蕉のものだった。
向こう側から、こちらのことを覗いてでもいるのだろうか。曽良に芭蕉の姿は見えない。
(……ああ。やっぱりうざい)
まったくもって、うざったいことこの上ない。
戸のある方へ視線を戻してみれば、全身をしとどに濡らして泣きじゃくり、溢れる涙を両手の甲でぐすぐすと拭っていた姿が思い起こされる。
そうして再び戸に背を向けた。とっとと熱湯を沸かしてしまおうと、曽良は考えたのだった。
開けてやるのはそれからだ。