唐突に思いついたかのようにして、曽良は指をしゃぶり始めた。
 ただしその指というのは曽良自身のものではなかった。芭蕉の人差し指であり、中指であり、薬指であった。親指から小指に至るまで、どうやら一本も逃すつもりはないらしい。


 かたい爪を柔らかな粘膜によって包み込まれるたび、不可思議な感覚に戸惑う。指と指との隙間の部分、やや薄い皮膚を舌先に押されると、どうしようもなくくすぐったい。彼の唾液に濡らされた場所が外気を浴びれば冷たかった。
 その一挙一動に、ぞくぞくとさせられる。けれども触れられ弄ばれているのはあくまでも右手のみなのだ。
 芭蕉にとっての利き手である右、そこだけが曽良によって完全に支配されている。
 だから芭蕉は一歩たりとも動けない。曽良のすぐ横に膝をつき、ただただ黙してその光景を見つめている。

 曽良もまた、芭蕉の横から黙々とそうした行為を繰り返す。
 どうしてそのような真似をするのだろうか、と、芭蕉は首を傾げる。彼との関係が未だ単なる師弟のままであったならば、何か病かまじないにでもかかったのだと思って、慌てて彼ごとこの舌を引き剥がしていたことだろう。そうでなくとも、そのぐらいに、この行為には確かな意味も理由でさえも見えてこない。


 芭蕉は困惑していた。その上で、哀れなほど明らかに捕食されていた。
 異常な世界へ連れ込まれたかのような感覚に全身が昂る。舌を見せつけて芭蕉の右手に甘える曽良自身の整った様子もまた、それを助長しているらしかった。
 切れ長の両目に、あまり主張の強くない薄い唇、すっと通った鼻筋と輪郭。短く切ってしまった髪の毛はそれでも、どこまで見つめてやろうが深い黒色をしている。
 それらは芭蕉の心臓にあやしい炎を灯すものだ。


「曽良くん、赤ちゃんみたい……」
 指しゃぶりだなんて。人様のではあるけれど、と芭蕉はぼやく。その吐息は荒かった。

 確かに異様な空気ではあるものの、今さら振りほどくような間柄でもない。曽良の舌先はそれこそ芭蕉の、もっととんでもないところにだって触れたことがある。やわらかくて滑らかで、あまりにも熱を帯びたそれは凶器のようなものだ。いや、狂気のようなものだ。少なくとも芭蕉にとってみれば。
 そうであるのに振りほどけない。それだから芭蕉は、自分自身に困惑している。

 たとえばこうして曽良の気まぐれで前触れもなく嬲られる度、芭蕉は己の昂りに負けていやらしい生き物になっていくかのような錯覚をおぼえるのだ。『それ』をしているのは曽良の方であるのだというのに。自分はただ、されるがままになっているだけだというのに。見た目にはきっと赤ん坊か幼子かという、だらしない戯れに過ぎないのであろうに。そして、目前の曽良はどこまでも涼しげに整ったままであるというのに。
 指先は神経の集中している場所だが、そこまでの性感帯として意識したことはない。なかった。けれどもその場所が曽良の舌先にぶつかれば、芭蕉の身体はひとりでに震える。相手が曽良でなければ、ここまで至れるはずもなかった。増々ひとりだけ淫猥へと叩き堕とされた気分になって、被虐の感覚がじわじわと芭蕉を包み込む。

 そして、同時にはある種の優越感を与えられもする。


「いつもは……私よりってぐらい、大人ぶるくせに」
「……大人ぶってなどはいません」
 唇を離して、舌を退き、曽良はゆっくりと言い返した。そこには戸惑いも怒りの感情もない。ただ、僅かな熱ばかりが込められている。
「……でも。今は曽良くん、赤ん坊みたいだから」
「そうですね」
 芭蕉に向けて視線を合わせる、その表情は平然としていた。
「いま、子供ぶっているんです」
 淡々と芭蕉の感情を抱き上げて追い詰めるだけの言葉を持っている。
 
「なんで」
「そうすると、面白いので」
「なにが」
「芭蕉さんが」

 それから再び触れてきた舌先はやわらかく、そうしてやはり燃えているのかと錯覚するほどに、熱い。





(言葉で……よりにもよって言葉で、翻弄されてしまう。師である私の方が)
 屈辱に他ならない、はずだ。
 それなのに、それだから、芭蕉は優越感すらをも抱いている。
 この整った男の舌に捕食される、たったひとりの獲物としての満足。自分自身のほかのすべてへ、風に舞う塵芥にまでも誇ってやりたくなるほどの、それは芭蕉の現実を支配する昂揚なのだ。
(しかも曽良くんはまた、ひどいことを言う)
 面白いのだと言った。彼は言葉で、態度で、芭蕉のことをおもちゃか何かのように弄ぶ。そのくせ、気まぐれに愛でるような甘い真似もして丁寧に扱ってみせたりする。
 そのために芭蕉は、いま、間違いなく昂って呑み込まれていく。彼の舌先から、本来ならば戸惑うべき異常へと溶け入って、そうすればやがてふたりは同じものになる。
(……いつもだったら。すぐにでも腹が立つのに)
 どうしてか。

 このまま、これから、どこまでひどくしてくれるだろう。



「あぁ、そう。……おもしろいんだ、わたし」
 熱された溜め息をはあ、とひとつ放ってから、芭蕉はそれこそ甘え返すようにして微笑んだ。













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