「曽良くん」
ぼんやりと、己の名を呼ぶ男の声が聞こえてくる。
「曽良くーん。そろそろ休まないかー」
背後からだった。曽良の背中に力なくぶつかっては、ぽてっと勢いをなくしてしまう。
「休もうよぅ」
へろへろとした声色だ。
「今日になってからもう、七度目です。芭蕉さんが休みたがるのは」
「そのうち本当に休ませてくれたのは……二回だけじゃないか。その愛想のなさ、どうにかならんの……」
「芭蕉さんもその、飽きっぽいところをどうにかしたらいいんじゃないですか」
「飽きてないわい。疲れたんだよッ」
「そうですか……」
「……そうだよ」
「弱ジジイ」
「休ませろ!」
ぶうぶうとうるさい。
曽良は振り向いてやることすらもしないまま、背後で弱音を振り絞っている師の性分についてを考え始めた。
芭蕉はとにかく子供のような男であるから、好き嫌いも激しい。甘ったるくて、楽で、体には悪いようなものばかりを好む。都合のいい方向だけを選びとって道を進むことに躊躇がない。
(ほぼ、まったくと言っていいほど……ない)
たとえば、面白そうなものを見つけたからと言ってはすぐに寄り道をしたがるのが芭蕉だ。そこで飽きるまで体力の無駄遣いをする。
物売りのひとりでも見つければ、金の無駄遣いもしたがる。そうして買うものが食べ物であったりするとなお悪い。大食いをして、後になってから腹が重いだの痛いだのと言い出す。
芭蕉はとにかく子供のような男であるから、まずは本能を優先するわけだ。
やりたいと思ったことはすぐにやる。そのくせ、あっさりと飽きてしまう。そうして飽きてしまったはずが、また執着を始めることもある。あるいは結局、平然と手放してしまったりする。
(旅が好きなので、旅をする)
旅をするためにも身軽である。身軽になる。
(いや。生まれもって身軽だからこそ、元より旅に向いた男なのか)
旅をすることによって得るものもきっと多々あることだろう。
例えば彼は、旅のうちに様々な句を詠んできた。
「だいたい私なんかっ、ちっとも飽きっぽくないんだよ? むしろ根気づよい方っていうか、俳句ノートだってこんなに作ってるし……」
「いちいち覚えてるんですか。これまでのノートの中身を全部」
「覚えてるよ!」
「本当に?」
「覚えてるとも! この旅の中で詠んだ句、通った道、あった景色、さわったもの、喋った人……」
「ぜんぶ?」
「思い出せるさ。見たんだから」
だって私は見たのだから、と彼は言う。
確かに忘れるようなことはないのかも知れない。彼が紡ぎ出した句の数々、それ以上に数多の句になっていない言葉の羅列、すなわち彼がこの旅に求め、出会うに至った何もかも。
けれども、飽きることもまた有り得ないのだとどうして言いきれる。
なぜなら芭蕉は子供のような男であるから、想像に足る思考と行動だとか、それらしいお情けだとか、やり取りのしやすい呼吸の調子だとか、とにかくは常識のままの喜怒哀楽だとか、そういったものをいっさい期待できないのだ。
まずは本能を優先する。そうしてまたいつにでも、疲れたとか飽きたとか、もう詠めないとかもう要らないとか、やめようとか言い出すのだろう。あるがままを受け入れることのできる男はあるがままを投げ出すかも知れない。いかようにでも。
(この旅に飽きたとすら言い切ったくせに……)
いったいどの口をもって、根気づよい方だなどと名乗ろうものか。
彼が自らこの旅を捨ててしまうようでは、どうなる。
『俳句のための』旅であるからこそ引っぱり出されて、私情もそこそこに同行してやり、『俳句のための』旅であるがゆえに何かと調整をしてやるものの、よりにもよって「俳句を詠めない」のだと嘆かれることも度々。その面倒をみてやっている人間の立場はどうなるのだ。
(ただの弟子を十人ほどつかまえてきても、こうまでは働いてやるまい。どんなに甘やかそうが……これほどには)
よくも偉そうなことばかり、この僕に対して寄越してくれる。あなたの方から始めたこんな旅に対してすら、飽きたのだと言い放ってしまうくせに。
「……曽良くーん! だから休もうってぇ!」
芭蕉が芭蕉であるために、思えば思うほど深みへと嵌っていく曽良は、その芭蕉当人からの訴えを静かに気持ちよく聞き流した。
ぶうぶうとうるさくはあるものの、どうやら彼に未だ立ち止まってしまうような気配はない。