揃えた膝をぎゅうと両腕で抱えながら、芭蕉はひどく小さくなって座り込んでいた。
その唇は何ひとつ言葉を紡がない。閉じて『へ』の字を描いたままに押しとどめられている。普段にはそれこそ、長らく付き合ってきたはずの知人たちをも驚かせるほどのお喋りである、この男にしてはまったくもって珍しい出来事だ。
そんな芭蕉がふいに斜め後ろへと視線をやると、そこには黒髪の男が在った。
他ならぬ河合曽良である。呼吸の届くというほどの距離でこそないものの、掌を伸ばしてみれば届くであろうという程度には芭蕉に近しい距離を保っている。
「……曽良くん、どうしてそこいるの?」
「なんとなく」
「私、ひとりになりたいんだよ。そっとしといてくれよぉ」
「面倒なのでいやです」
「面倒ってなんだよぅ」
「面倒だというのは、つまり面倒くさいということです」
「そのまんまじゃないか!」
曽良は黙してしかし、そこからいなくなってしまおうとはしなかった。また、芭蕉に対して、ならばお前こそ向こうへ行けばいいだろうと求めるようなこともしなかった。そして自ら語りかけてくることもない。
芭蕉もまた、何をも語らずにいる。再び唇を強く結んで、そこに小さく座り込み直した。
どちらの言葉もその距離にしても動こうという気配は見せない。ただ、少なくとも孤独に泣き喘ぐような声色もまた、決して響くことはないままである。
気に入りにしている縫いぐるみがほつれた。
マーフィーくんと名を付けているものの内のひとつであるそれは、芭蕉の鞄の傍らを定位置にしている。紐でしっかりと括り付けられているので鞄の表面との間に摩擦を起こすのだ。そのために布地が薄くなっていって、分離してしまうことも少なくはない。
そのような場合に、芭蕉は自らで繕い物をする。言わばその小さな親友を、風呂に入れてやるようなものだと考えて手間をかけている。決して深い傷ではないのだ。唐突に引きちぎられでもした日には、それこそ今夜が峠だと慌てて狂う羽目にもなるのだが。
作業にあたる芭蕉の機嫌は見た目にも実に軽やかな様子であった。
針と糸とを扱う手つきは自己流のもので危なげがないとも言いきれない。とはいえ踊るように動いて、親友に開いてしまった小さな疲労の穴たちを埋めていく。薄茶色の糸がくるくると回される調子に合わせ、暢気な鼻歌なども浮かび上がってくる。
草色の着物を纏った背中はゆったりと丸まり、それらの動きに伴って揺れ続けていた。
そこへ、音もなく伸ばされる掌がある。
程もなくしてその掌は草色の着物の背の部分へと触れた。布地ばかりを、力は込めずにきゅっと掴み上げる。
そこでようやく気がついて芭蕉は、反射的に背筋をぴんと伸ばした。繕い物をする手をとどめる。
「……なに?」
「……なんでも」
ひとまず短く問うてみたならば、たったそれだけが返される。掌の主は、そのほかに何ひとつ続けようともしない。
やや間が開いて、それから芭蕉はふっと笑みこぼした。
針と糸から紡がれる調子が再開する。たいした意味のない鼻歌も切れ切れにまた奏でられ始める。
ただし草色の着物の背中は、もう揺らされて踊ることなく、再び丸まって今度はじっと止まっていた。布地を浅く握る掌を逃すことなくそこにとどめてやっている。
その体温に背中をゆるし、ただ握らせたまま、微笑みながらに黙して芭蕉は相も変わらず上機嫌の様子であった。
繕い物はまだ続く。疲労のあとを埋めるのだ。思うがままの調子に乗せて小さな穴を満たしていく。
掌の主、曽良はその背に繋がったまま、そっと両の瞳を閉じた。