木の桶を湯で満たすと、外から触れただけでも温かな感触が伝わってくる。それが冷めてしまうよりも前に手ぬぐいを濡らしてしまいたかった。
やや濁っている透明の水面に両手の指をさし入れると、じんわりとした熱が皮膚を包みこむ。どうやら随分と冷えきっていたようだ。
己では気がつかなかった。
そう、ぼんやりと思考を巡らす曽良の横から、何やら物音がしてくる。
「…………らくん……曽良くん」
呼び声もする。
「曽良くん!」
その声量がひときわ大きくなって、曽良はようやく自らの隣へ首を向けた。
「……なにか?」
「何かじゃないよ、ぼんやりとしちゃって! せっかく私が『ふいい〜。あっついお湯ってホント、浴びるだけでも生き返るよねぇー』とか話しかけてあげてたってのにィ」
「そうですね。べつに繰り返さなくてもいいですけど」
「どうせ聞いちゃーいなかったんだろ!」
曽良のすぐ横で芭蕉は憤りながらも、全体を濡らしていた手ぬぐいをギュウギュウと絞っている。
「で、なにか?」
「やっぱり聞いてなかった!」
「聞いてませんでした」
「やっぱりまったく悪びれない! うぅ……ああもう、曽良くん。わたし先に浸かりに行っちゃうからねッ」
ねじくれた手ぬぐいを握りしめる片手でもって、芭蕉は湯船のある方角を示した。
曽良は言葉を返さなかった。曽良からすると芭蕉の姿より更に向こう側、遠いところに広がる熱い水面を、ただ黙したままじっと見つめている。
やがてその視線は、今度は手ぬぐいを広げにかかった芭蕉の姿へと移動した。しかし芭蕉に感づく気配はない。曽良は自分を相手にしなかろうと諦めてしまったのか、下の方を向いて広げた手ぬぐいを畳み直している。
ふたりの視線はどちらとも暫し動かぬままであった。
しかし湯に浸かる準備を終えてしまうと、先んじて芭蕉が顔を上げる。
「よいしょっ」
その勢いでもって真っ直ぐに立ち上がってもみせた。
「あ……た、立ち眩み」
芭蕉の脚がふらふらと踊る。踊りながらも全身を回して、くるりと湯船のある方を向く。
なにかと不安定なそのさまを、曽良は彼の右隣からなおも見つめ続けていた。
様々なものが曽良の視界を支配する。
骨のかたちが目立つ、決して逞しくはない背中。それなりに歩いているだけのことはあって、筋肉を蓄えていないでもない脚。そこから細々と生えるすね毛は茶色をしている。薄く柔らかな彼の体毛は、しっかりと見ていなければほとんど目立たない。
(……独り言の多い男だ)
後ろ姿は、ゆっくりと離れていく。
その身体が湯船へと浸かっていく光景を、曽良は内心に思い浮かべた。
何故であろうか、なかなかはっきりとは浮かんでこなかった。
しかし大して迷う間もなく無理もないのだと理解する。旅の道中、こうした入浴の機会がそうそう多々あるわけでもない。その上に。
その上に、曽良はいつでも芭蕉の先を歩んできたものだ。
湯殿においても例外ではない。滅多なことでは、芭蕉の背など見送りはしない。
(……なぜ)
離れて行こうとする芭蕉の姿を視界におさめたまま、改めて首を傾げる。
なぜ。
芭蕉の身体は曽良よりも小さい。湯のうちに浸かって腰を降ろしてしまえば、なおのこと小さい。
首より下を曽良からは見えない世界へと沈めて、心地良さそうな表情を浮かべた後に、彼はきっと曽良のいる方へ視線を向けてくるのだろう。自分から先へ行くのだと言い出して、ひとり歩いていったくせをして、どこか不安げにも問うのだろう。こちらへ来ないのか、と。
ところが湯船は線をひとつ越えた場所にあるのだ。芭蕉がその線を乗り越えて行ってしまったのと同じように、曽良もまたその線を越えて行かなければそこへ至ることは叶わない。
そしてただ、至ってみたとしても。辿り着いた先に未だ彼が在るとは限らない。
もう既にいなかったとして、ならば戻ってくるのかどうかも、解らない。
曽良はいつでも芭蕉の先を歩んできたものだ。遠くに振り向く小さな影を追って走ったことはない。
遠くに振り向く小さな影を、追って走るべきのないように。
滅多なことでは芭蕉の背など見送らない。
ひとつ前さえ行ってしまえば、越えるべき線を先んじて越えれば、彼は必ず追いすがってくるのだと曽良はよく理解している。だからこそ、いつでも芭蕉のひとつ先を歩んできたものだ。
ふと気がつけば、曽良は己の左腕を伸ばしていた。のろのろと歩み始めた芭蕉の背に向けて、真っ直ぐに伸ばしていた。芭蕉の右掌には手ぬぐいが握られている。辛うじて互いに、手と手の届くような距離にある。
釣り糸のごとく垂らされている布の端へ、曽良の指先が届いた。
掴むや否や、ぐいと引き寄せる。
「あうっ」
芭蕉の全身がぐらりと大きく後ろ側へ揺れた。
かかとに体重をかけたまま、体勢を崩して仰向けに倒れていく。
「わ、わわッ…………わ?」
しかし、その身が湯殿の床へ打ち付けられることはなかった。
したたかに後頭部を痛めるであろうと本能から覚悟していた芭蕉は、体勢が崩れた直後から両眼をかたく瞑っていた。しかし思っていたような衝撃や鈍痛はいつまでたっても訪れない。
その代わり、なにやら温かく柔らかな壁が、頼りどころなど無かったはずの後ろ半身に重なっている。項や背中に伝わってくるもの。素っ気のないようにも感じられながら、どこかしっかりとした熱。
体温。
「……そそ、そ、曽良くん?」
いつの間にやら立ち上がっていた曽良の、両腕が背後から伸ばされて芭蕉の全身を支えていた。
「……そが多すぎますね」
「じゃ……じゃなくて! あ、ありがとう?」
「どういたしまして」
「で、でもない! コラ! 君がやっただろ、またやっただろ、転ばせただろっ!?」
「突風か何かじゃないですか」
「ウソつけー! そんなもん絶対に吹いてないッ」
「でも、それしか考えられないじゃないですか」
「またそんなジョーダンで返すなよぉ! ほんとに転んでたら私、アタマうって俳句も詠めなくっ……う!?」
喚く芭蕉の大声はしかし、そこで途切れてかたまってしまった。
その身体を支える曽良の両腕が、離れていく、どころではなく逆に接触を深めてくるのだ。すっぽりと包み込まれて、背後から抱かれるような体勢に陥る。
「……な、ナニコレ? タイタニック、ごっこ?」
「転ばなかったでしょう」
「聞けよ! こっ、転んでたら泣いてたよっ……もう大泣きだよ!」
「転ばなかったでしょう。芭蕉さん」
「ね、おい、ちょっと曽良くんってば。そもそも、なんでいきなり手ぬぐい掴ん……」
「湯船へは僕が先に行きますね。芭蕉さん」
「聞けっての! あ、まさかそ、そんなことのために君ッ……」
ところが、淡々とした台詞とは裏腹に曽良の両腕はいつまで経っても緩まる気配を見せない。
「…………曽良くん?」
芭蕉の全身をがっちりと捕えて、前にも後ろにもどこへも逃そうとしないままである。
「……そらくん。こそばゆいよ」
「春風か何かじゃないですか」
「ウソ……つけ。そんなもん、絶対に吹いてないっての」
「でも、それしか考えられません」
動けずにいるその肉のない右肩に、また新たな体温が重ねられた。曽良がその顔を埋めてきたのだと、頬にあたる黒髪を感じて芭蕉はどうにか理解する。
何もかもを気まぐれに、唐突に行ってみせるのがこの曽良という男ではあるのだが、いったい今度はどのような意図を抱いているものであろうか。芭蕉にはもうさっぱりと読めそうになかった。
「気のせいですよ。芭蕉さん」
そのために、されるがまま。
湯殿に満ちるあたたかな湯気に囲まれ、曽良はこの自らによって作り上げてしまった状況を甘受していた。こうしておけば、芭蕉が先んじて何処かの線を越えて行くようなことはない。それならばそれで良かろうと思った。
そうでなくとも。
そうでなくとも、彼にいざなわれて旅を始めたその瞬間からそうしているように、彼よりかも前さえ歩んでしまえれば構わない。彼には常にこちらの背中を見せておいて、追いすがってくる情けない姿を時折に振り返っては確かめてやるのがよい。
両腕のうちにて身を竦めている芭蕉の体温は、どうやら先刻に触れた湯よりもひどく熱かった。
本当に、自分はそんなにも冷えきっていたのかと、曽良は再びぼんやりと思考を巡らせた。