その日、芭蕉はたまたまの幸運に恵まれて良質の地酒を手に入れた。
別の用を済ました帰りに芭蕉庵へと立ち寄った弟子があったためである。地酒は彼の手みやげだった。
呼ばねば来ない弟子ばかりをもつ芭蕉にとっては、久方ぶりの来客にあたる。もちろんのこと嬉々として招き入れた。すると歳若きその弟子は恐縮だと返したが、元より気安いところのある芭蕉はうきうきへらへらと笑うばかりである。
熱い茶と甘い菓子が用意された。芭蕉の準備は手慣れたものである。弟子が立ち上がって何か手伝おうとすると、芭蕉はその度に目を丸くした。
用意が済んで落ち着くと、ふたり向かい合って雑談など交わす。芭蕉は常に話したがりで、聞きたがりでもあるもので、言葉の途切れることはない。夕刻に至るまで会話は続いた。話題の切り替わる度に芭蕉が「君はやさしい、ほんとやさしい!」と繰り返すもので、弟子は首を傾げながらもまた縮こまる羽目になった。
そうしたわけで師に振り回された歳若き弟子であったが、晩を迎えるよりかも先にいとまを告げた。芭蕉に引き止められはしたものの、また別の用があるからという事情では仕方がなかった。
芭蕉が彼を見送ると、庵には酒と芭蕉ひとりが残される。
その日、芭蕉はたまたまの幸運に恵まれて良質の地酒を手に入れた。
すぐにでも味わってみたいと心を躍らせた。とはいえ、弟子を帰してしまったもので酌み交わすための相手がいない。一人酒をという気分ではなかった。しかし、やはりすぐにでも味見をしたいと思案する。
考えた末、芭蕉は庵にもうひとり客人を招こうと決めた。
身近に暮らしているもので珍しくはない、土産を持って訪ねてきてくれた歳若き弟子ほどには優しくもない、食事に酒の相手としては今さら改まるような必要もない。芭蕉にとって、たったひとりを選択するとしたならば彼であった。敢えて選ぼうとするまでもなく、ただ、彼であった。
住まいは芭蕉庵にひどく近しい。声をかけようと訪ねて行くのにも、散歩でもするような気持ちで向かえばいい。あちらが既に夕食の支度を始めているようであれば、酒と幾らかの食材を持って行ってあちらで食事をしてしまうのもいいだろう。と、そのぐらいのことがまかり通ってしまうほどには身近な距離感にある。
地酒を持ってきた弟子がどれほど優しく『弟子らしく』あったか、たっぷりと語ってやらねばなるまいと芭蕉は企んだ。日々に顔を合わせている、優しくはないその男もまた芭蕉の弟子であった。
芭蕉にとって曽良という男は実に身近な存在であって、それこそ日々に顔を合わせているというだけではない。ふたりで同じ夜を過ごそうという戯れもまた、珍しいようではなくなりつつあった。
挨拶と少しばかりの会話の末に、結局のところは芭蕉が曽良を庵へ招くこととなる。
食材はふたりで用意した。台所にもふたりで立ち、肴ともなる夕食の準備をした。芭蕉が鍋の前にて杯をふたつ出してくれと頼めば、曽良は手早く応えながらもきちんと洗っているのですかと憎まれ口をきく。すると芭蕉は、洗っているよ失礼な、師匠をなんだと思ってるんだと慌てて返す。
それらは二人にとって、ふたりだけにとっては、既に馴染んでしまったやり取りであった。言わば当たり前のような光景であるとすら言えた。
しかし、後に並んで交わす地酒は舌に馴染まぬ鮮烈な味わいをしている。上品でありながらにも強く強く舌の上に残り、そこからゆっくりと全身へわたって酔わせていくのだ。
芭蕉も曽良もそれを好んでしこたま喉に通した。なにしろ呑み心地のたいへん良いものであるから止めようと思わなければ際限がない。土産として渡された壷をほとんど空にしてしまって、ふたりは相当に酔っぱらっての夜半を迎えた。
銘々膳のそれぞれに杯と肴を広げて、ふたりの男はぼんやりと向き合っていた。杯はどちらも底を見せている。食欲の方も満たされてきた頃で、芭蕉がのろのろと煮物の余りを箸でつついているという程度であった。
「行儀の悪い」
色のない揶揄が飛んだ。他でもなく、曽良の声色である。
「食べるよ、ちゃんと」
言い返して芭蕉は、甘辛く煮た里芋を口へ運んだ。芭蕉好みの、ただし芭蕉がするよりかも幾らか濃いめのその味付けは、曽良の仕事であることを示している。
「ほら。食べた」
「芭蕉さん、髪の毛のびてきてますね」
「聞けよ! 五、七、五で関係ないこと言わんといて聞けよ!」
「切りましょうか」
憤る芭蕉の訴えを流して、曽良はなおも『関係のないこと』を続けた。
「……は? いま?」
箸を膳の上に手放し、芭蕉の動きがぴたりと停まる。
「今です。今やらなければ延ばし延ばしにするでしょう……無精さんは芭蕉ですから」
「逆!」
曽良があまりにも真顔をしたままに戯れなことを言うもので、芭蕉は驚愕した。驚愕のあまりに一言しか返せなかった。
「……いいよ。こんくらい」
幾秒か遅れて、もう一言を付け足す。
「さっぱりとしていた方がまだ、貧相ぶりも薄れますよ。そう思いませんか」
「遠慮のない言い方すんなよォ。……でも、やだなァ」
ぽつりと漏れたその言葉に伴い、ぼんやりとしたままであった芭蕉の表情はなぜか唐突にへにゃりと笑んだ。
「そーだ、切らんぞ! ロン毛のモテ男になったるんだもんねーっ!」
へらへらと大笑いをしながら、自らの尻の下の座布団を引き抜く。引き抜いたかと思うと、今度はそれを両腕でもって抱え上げ、頭に被ってしまった。
「かくれんぼォ〜」
はしゃぐ芭蕉は座布団の下にて猫のように身体を丸める。
「曽良くーん、私はどこにいるでしょーっ?」
そうは言っても草色の着物の袖と、そこから伸びる骨張った腕とが丸出しになっている。ひと一人の隠れられようはずもない座布団がたった一枚、なんとも正しく酔狂の戯れであった。
曽良はゆっくりと立ち上がると、ふらふら歩んでそんな芭蕉の在るところまで辿り着く。
「どこでしょおぉ?」
「……さあ。どこだか」
ふたつの膳の向かい側とは、そうそう遠いものでもない。すぐ傍らに曽良の返答を感じつつ、それでも芭蕉はけらけらと笑っている。
座布団を脳天に被ったままで身を屈めている芭蕉の姿を、曽良は数秒かけてじっと眺めた。かと思えば、くるりと回ってその光景に背を向ける。
「どこでしょうね」
言葉とともに、曽良の腰が降ろされた。芭蕉の頭上の座布団へずっしりと座ってしまう真似をする。
「あうぅ重ッ」
「見つからないようですね」
外見の様子からでは解らぬものの、彼もそれなりには酔っぱらっている。
「重いってぇー」
「見つからないので……」
「見つからんの? ほんと?」
「ええ。とても」
会話は互いに今ひとつ繋がらぬままで進んでいった。
その後は暫しの沈黙となったが、やがて曽良はまた不意に中腰の状態を解除する。立ち上がって芭蕉の方を向くと、頭上の座布団をはぎ取ってしまった。
「あっ! 絶対に見つからないと思ったのに」
「絶対に見つけました。ほら、髪の毛を」
屈んだままに無謀を言う。そんな芭蕉の向かい側に、曽良は両膝をついた。
「ふッ」
「切るんです」
その体勢から片腕を伸ばして首筋へ触れてやる。後ろ髪を梳き、軽くはらって、うなじを撫でる。
「あふ。曽良くんの……手ェ、ひんやりしてる」
「していますか」
「次は私がオニかぁ」
「いいえ。まずは髪です」
撫でたうなじの皮膚を弾いて、髪の毛の根元をきゅっと握る。
「いたーッ」
「髪です」
「二度いわんでも聞こえてるよ! 切るならちゃんと切って、くれよっ」
芭蕉がようやくそこまで言うと、ひんやりとした掌は離れていった。
「いいでしょう」
自分の方から言い出したにしては素っ気のない声色であった。恨みがましく見上げてきている芭蕉の視線を受け流し、曽良は平然と立ち上がる。
そうして取り出されたのは銀色をした大鋏であった。
曽良は手早く散髪の準備を整え、有無を言わさず芭蕉を目前に座らせる。程なくして、じゃきんじゃきんという大袈裟な音色が響きはじめた。
「切れる?」
「切れてます」
「……いつかみたいにさ、剃っちゃうのはやめてぇね」
「するかも知れません。わざとではなく」
切り離された細かい髪の毛は、畳の上に敷いた紙へと散り彩っていく。芭蕉のそれは、黒よりかも幾らか乾いた茶色をしている。
「お……脅すのはヤメロ!」
「酔ってるんで」
「まぁったくそう見えないッ……」
しかしながら、こうして散髪を任せるのも二度目や三度目のことではなかった。『いつかみたいに』無茶をせぬとも限らない曽良に、それでも芭蕉は身体の一部を任せてしまう。
「だいたい、そんな大きな鋏をどっから出してくるんだよ……懐にでも入れてんの?」
「どちらかといえば背中ですけど」
「入るの? 刺さっても知らんからねっ」
「芭蕉さんの縫いぐるみほどにはかさ張りませんよ」
「マーフィーくんをカサバリ扱いするなよ」
曽良に背中を向けているので、芭蕉の視界に曽良の姿は映らない。
「四つも五つも持って歩いて、かさ張らないわけがないでしょう」
「でも鋏みたいには刺さらんもん……鋏の方が怖いよ、絶対……!」
そう言って芭蕉が身を縮めるうちにも、じゃきん、じゃきんと細い髪の毛は整えられていく。畳に敷かれた灰色の宿紙へ更にはらはらと線をつくる。
鋏が音をたてる度に伴って曽良の影も揺れた。その髪の毛は夜闇よりかも少しだけ深く、波のない黒色をしている。その指先は時折、芭蕉の髪の毛から逸れてうなじの皮膚をくすぐる。
「っは……くすぐったァッ」
「暴れないでください。大雑把にいきますよ」
「あひッ、やだやだ」
半笑いからふう、と一息をついた後、芭蕉はごそごそと姿勢を整えた。
「……曽良くんのくれるもんって、痛いかくすぐったいかばっかりなんだよなぁ」
「痛いだけの方が好みでしたか」
「いやいや! 痛いのはイヤだよ、普通ッ」
「芭蕉さんならあるいはと思って……」
「そんなん想定せんといて!」
芭蕉が叫ぶ。その訴えの傍らでは、未だにしゃきしゃきと音がしている。
「……普通にやってよ。こんなに器用なんだから」
細かい場所にまで鋏を通しているようであった。芭蕉の首へ、ひやりと触れたり離れたりをするものは、曽良の指先かそうでなければ刃の一部である。
「不器用ですが、器用にでもならなければ。芭蕉さんなどの面倒はとても見きれないので」
「あっそーっ! 曽良くんがほんとは器用でよかったよー」
「そうですね」
わざとらしく皮肉めいても曽良の平然は崩れなかった。芭蕉の身体は、変わらず刃と曽良の手によって整えられていく。
その、捕えられたままである首を少しばかり後ろへ回して、芭蕉は曽良へ視線をやった。
「自信家めぇ」
「芭蕉さんこそ」
するとようやく、返される言葉に淡くもそれらしい色が灯る。
芭蕉は曽良にその身体を任せている。脅されたかのような気持ちになれども、未だ逃れずに任せている。
ふたりは互いに師であり、弟子であり、しかしただそれのみというわけでもない。ゆえに芭蕉は曽良へと身を任せ、銀色の刃は今、しゃき、しゃきと大人しい音色を紡いでいる。
「これが終わったら私、また隠れちゃうからね」
「隠れる場所がないでしょう」
「あるよ。分かるよ、私の庵なんだから!」
芭蕉は胸を張った。その動作がまた散髪の邪魔になるもので、背後から肩をぴしりと叩かれる。
「いたっ。……曽良くーん」
すると、体は大人しくなったが言葉の方はとどまらない。
「……じっとしてるから。隠れたら探してくれよぅ」
「面倒です」
「そんなん言わんといてさーっ」
「放っておいて帰ってしまうかも知れません」
「ええー」
じっとしたままで芭蕉はむくれた。
「帰らんといてぇ」
「帰ります」
「うっそだ、うそだァ。曽良くん、ほんとには置いて行かないくせに」
「行きますよ」
ふたつの声は互いに返事を待ちながら、いたちごっこをして重なり合っていく。
「置いてかれたら、寂しいのに」
「僕は寂しくないもので」
「ほんとに本当? そしたら口吸いもできなくなるのに」
「……離れていようが、そう変わらないでしょう。本質は」
曽良の言葉が少しばかり遅れた。数秒もない隙間を、しゃきん、しゃきんと途切れぬ鋏の音色が埋めつなぐ。
「そんなことないよォ」
「芭蕉さんがそう思うのは……お子様だからでしょう」
「じゃなくてぇ」
曽良の視界のその中心には芭蕉の後ろ姿が在る。背を向けている芭蕉の視界に、曽良の姿は映らない。うごめく彼らの身体は、鋏を通して互いの質量を感じ合う。銀色の刃は曽良の指先に支えられ、芭蕉の細い髪の毛に触れ、黙々と役目を果たし続けていた。
酔いはふたりを、穏やかにも深く染め上げたままである。
「ひとりでいたら、その本質の中身ばっかりが育つんじゃない」
畳に敷かれた宿紙の上には細かい髪の毛が幾重にも連なる。曽良の指先が、支える鋏が通り行く、それは芭蕉の色である。
「ずうっと抱えてなきゃならないんだよ、ひとりで。感じて考えて、育って育って……こんなんじゃ私、破裂しちゃうじゃないかぁ……」
はあ、と熱い溜め息が漏れた。その気配は曽良の耳元へも届く。
すると曽良は指先の動きをとどめたが、また一秒も過ぎないうちに再開した。
「……芭蕉さんの髪の毛がまたのびたら、切りに戻ってやります。二度とのびないかもしれませんが」
「のびるよ!」
曽良の物言いに導かれ、芭蕉は勢いを取り戻す。
「……そのときだけ?」
そこに、まるで囁くかのような小さな問いかけが続く。
「ええ。そのときだけ」
「それでも寂しい」
「なら、今日のように僕のことを訪ねてきたらどうですか。追い返してやりますが」
「追い返さんといて! それに曽良くん、留守だったりしたらもっと寂しくなるじゃないかっ」
「…………」
主の気配を失って、残り香ばかりを染み付かせた家屋は確かにいっそのこと寒々しい。
曽良にも解せぬわけではなかった。しかし、これでは本当にお子様の駄々のようなものだ。
「わがままな男だ」
「曽良くんが寂しがってくれないから。私が曽良くんの分まで我が侭になるんだからね」
「いけませんね」
髪の毛を整えるための刃が、今度こそ本当にぴったりと止まった。
その代わりに、芭蕉のうなじへと触れるものがある。刃に比べて柔らかく、熱を抱いたそれはこそばゆい。芭蕉は浅く身をくねらせた。
「そう、簡単にひとを振り回そうとするものではない」
「曽良くんこそ……唇、あっつい……」
吐息の熱も、口づけほどに近ければはっきりと伝わってくる。
「芭蕉さんよりかもまだ若いので」
「可愛くないやつ」
芭蕉がうめくと、曽良は小さくそうですか、と言って返した。
その傍らで、曽良の得物の大きな鋏は畳の上へと横たえられる。芭蕉の喉へと触れているものは、いつの間にやら指先でもなく刃でもなく、曽良の唇と更にその内側ばかりとなっていた。
「あ、痕。ついた?」
「さあ」
「つけるなら、どうして髪を切ったんだよ。外から見えるっ……」
「かも知れませんね」
曽良の返答は、どうということはないと言いたげな風をしている。
「んな、他人事みたいな……!」
「芭蕉さん」
抗議を遮り、またもうなじへ口づけが降りた。
「んん」
「それでも、何時かは。ひとりですよ」
幾度かに分けて唇をあてる。繰り返しの隙間に、曽良は言葉を紡いでいく。
「僕は僕ですし、芭蕉さんは芭蕉さんなんですから」
「ん、ん」
かるく濡れた音のする度、そこに芭蕉の小さな息切れが重なった。
「あなたの隣に暮らしていても。こうして髪を切ってやっても」
「う……ん」
「爪を切ってやっても、体を拭いてやっても」
「……うん」
「それぞれが行く場所へ着くのみです」
するともう少しだけ強い口づけが降ろされ、芭蕉はあぁ、とはっきりした声をあげる。
夜は心地よく、もう既に深い。日中からよく晴れていたので空高くには月も出ていることだろう。
「永遠だなどとは。考えもしない」
「曽良、くん?」
彼の声色は穏やかであった。
「旅の果て、行き着く先を定めぬままでも構わないと」
この季節の風のごとくに穏やかであり、また、月のごとくに静かでもあった。芭蕉の聴覚を満たしていく。
「思いません。思いもしません、どうしてかといえば……芭蕉さんのようなひとでは、ないので」
噛みつくような強い口づけが、ひとつ。
確実に痕を残すためのものであると知れた。
「あぅ」
感じて、芭蕉が切なげに鳴く。
「曽良くん……」
「思いません」
そう繰り返しながらに、曽良は背後から芭蕉を抱いた。
決して逞しくはない身を両腕に抱いた。締める力は、だんだんと強くなっていく。
曽良の体温を感じれば、伴って芭蕉の熱もあがった。
「……ふ」
その高温を唇から逃す。漏れる吐息は粘膜を濡らした。それもまたひとの体温であり、しかし曽良のものではないのだということを芭蕉は理解している。
だからこそ、己のうなじにとらわれたままの彼の唇を想いもする。
「曽良くん。朝まで、あとどのぐらいある」
「それなりに」
「それじゃあ、やめる。かくれんぼ」
「いいんじゃないですか」
「だって、何時でもできるからね。夜が明けても、君がまたここに来てくれたときにでも」
芭蕉が言うと、背後からは確かめるような吐息が返る。
はあ、と聞こえてくるものは、うすく敏感な皮膚をくすぐるものは、曽良の呼吸だ。規則的である。力強くもある。
「できる、ですか。勝手なことを……また簡単に言う」
調子の整った、興奮。
痛いほどにしっかりとして背後から抱き締めてくる腕へ、芭蕉はまるで撫でるかのように触れ返した。
「……ねえ。行く場所へ着くだけだったら」
皮膚と皮膚との触れ合いは、互いの体温を確かすぎるほどに伝え合う。
「同じ場所まで行けばいいんじゃないの。ひとりぼっちが、ふたつでさ」
浅い呼吸がどこかで交わる。
「だから、一緒のままでいてくれる?」
「さあ……」
掠れた声は否定とは異なる。決して真っ直ぐな肯定でもない。
「曽良くん、そんなのばっかり」
彼が遠回しに渡そうとしている感情を、芭蕉はその乾いた指先にて、かき集める。
(かくれんぼだって、ひとりじゃできない……)
ふたりいるのならそれだけで、見つかり見つけて繰り返す。
「……ぼうっとして。そのまま眠る気ですか」
「寝、ないよ。酔ってるだけ」
芭蕉も曽良も同様である。ふたりは揃って酔いしれていた。
だからこそ、現に夢が伴っているようなもので、どんな無茶でも本音でも通る。触れ合うままに瞼を重ねて距離を忘れる。繋がってしまえば彼らの意識は、ここだけの狭い世界へと沈んだ。
「あまり静かなので、もう眠りこけているかと思いました」
「はあ。道理で声が優しいと思った」
「老人ですから眠るのが早い……」
「まだそんな老いてないっ!」
芭蕉は拗ねた風に、後ろから回される曽良の両腕をきゅっと力を込めて掴んだ。
「いつもだって、もっと優しくしてくれりゃいいのに……」
「向きませんね。僕はあなたに、こんな酒はやりませんし」
「……れぇ、言ったっけ? コレお土産だったってこと」
いい酒があるからと言って誘いはしたが、それ以上の話はしていない。
「解りますよ。はしゃいで受け取ったんでしょう」
首を傾げる芭蕉の耳元に曽良の言葉が注ぎ込まれる。
「この畳の上に誰かを招いたんでしょう? 夜になるまでは居着いてくれなかった、誰かを」
彼の言うことは正しくあった。
いま酒と肴の名残が広がっているこの場所に、別の客を招いていたのは夕刻までのことだ。その客が置いていってくれた酒のおかげで酔えているのだというのに、何故かひどく懐かしい思い出であるようにも感じられる。
「あなたのにおいが染み付いてとれない、こんな部屋に」
どうして曽良に解るのだろうか。芭蕉はぼんやりと考える。
「なんで……」
「腹が立ってくる」
そして、ゆっくりとふたりの身体が捩られた。
唇と唇がはじめて触れる。曽良は芭蕉へ強く、強く自らを押し付ける。
どちらの言葉も途切れてしまった。
(なんで、どうして。曽良くん、怒ってる?)
すべての不可思議に、曽良は答えを出してくれない。
瞼を閉じれば視界は暗くとも、その体温は絶え間なく伝わってくる。触れ合い続けてようやく同じ時間を刻む。
曽良の動作はやさしいものであった。
(……きっと、どうせ今だけだろう。唇じゃ爪をたてられないから)
芭蕉はただのひとであるから彼の心を読むことができない。時たまに柔らかく思われる、曽良の一挙一動によって揺さぶられるのにも無理はない。
月はなお、空を飾っていることだろう。
芭蕉はたまたまの幸運に恵まれて良質の地酒を手に入れた。それだから曽良を庵に招いた。酒を酌み交わした。曽良というのは、芭蕉のやさしくない弟子である。日々に顔を合わせる仲で、同じ夜を過ごすようなことも、口づけもまた初めてではない。
決して何も特別ではない、果てなきほどに在るがままの幸福。そのくせにどこか寂しく、せつない温もり。
(……こんな時間も、まるで旅するみたいに勝手に過ぎてはいくけど)
住まいを並べて、互いに駆け引きをしながら日々を暮らしても。あるいはきっと、それぞれ異なった場所にあったとしても。この世に熱をもって生きるのであれば、今という時の過ぎ去らぬことはないのだ。
それでも。ふたりの夜はまだ当分、明けない。