弟子であり同行者でもあるところの曽良は、自分のことを置いて出かけてしまった。



 道中の荷物の買い足しである。
 旅費用の財布を左手に掴み、襖に手をかけて、彼は淡々と言い放ったものだ。『芭蕉さんは何かにつけ、きょろきょろと暴れ回って邪魔になるので』置いていきます、と。
(そのうえ……『大人しく、留守番をしていてくださいね』だなんて)
 馬鹿にされたような気がする。いや、馬鹿にされているのに違いない。
(くそう、ムカつくっ)
 童ではないのだ、自分は。

 恨みがましく内心に呟く松尾芭蕉は、安宿の部屋にひとり留守番をさせられていた。


(ムカつく上に、退屈だ)
 七、五。と、調子をつけてみる。
 元よりじっとしていることが苦手な性分であるというのに。
 いっそのこと何処かへと出かけてしまおうとも考えたが、それでは『留守番をしていてください』と口にした曽良に、何を返されるか定かではない。辛辣な言葉であればまだ結構。手刀ともなると相当に痛い思いをする。
 それに、ひとり出かけてみたとしても、何かしら出来るというわけではないのだ。
 旅費の管理も曽良なのである。そして財布は現在、正に彼の手の内にある。無駄遣いのできる小銭をそうそう持ち合わせているというわけでもない。
(なら、散歩でもしようか?)
 句を詠むために。そのようなことも考えては、みる。なにせ芭蕉は俳人である。しかし。
(……やめておこう)
 自らで首を振った。
 何であろうと、曽良がいつ帰ってくるものか解らないのだ。それに、書き留めておいてくれる彼がいないのでは、せっかく良い句を詠めたとしても無駄にしてしまうかも知れない。 
 芭蕉の句作は思うがままに為される。曽良はその大半を塵だと馬鹿にしながらも、必ず宝石を探し出して拾い上げてくれる。

 暫し、畳の上をごろごろと転がってみたり、ぼんやりと天井を見上げてみたりということを繰り返した。そうしている内に、それにも飽きた。
(…………そうだな。荷物の整理、でも)
 してみれば、どうであろうか。緩やかに思案する。
 片付けようとも日々のうち、どうせぐしゃぐしゃになってしまう場所ではあるけれども。
(こんなに退屈なんだから……)

 そうして芭蕉は、自分のための鞄を開いた。


 そこにはまず、帳面がある。
 もう何冊目になるのだろうか。旅に浮かんだ俳句を書き留めておくためのものだ。忘れてさえ、しまわなければ。
 そうしていくつの帳面をいっぱいにしてきたか、を覚えていないのは、何も決して杜撰だからではない。決して。しょっちゅう、それこそ日常的に曽良によって捨て去られているためである。
 その中には悪くない、いや確実に良いものであろう句もあったはずだというのに。どうしてくれるのかと以前、訴えてみたこともある。
 すると、「僕が書き留めていますから」と言い返された。『芭蕉さんご自身の曖昧な記憶よりも、ずっと正確に』。
(……そりゃあ、忘れちゃうこともあるけどさ。自分で)
 しかしながら、だからといって、そうした所業が許されていいものであろうか。師匠の持ち物を勝手に破棄する弟子があって堪るか。せいぜい曽良ぐらいのものだろう。
 それだけではない。旅費の管理は譲らぬし、そもそも師である芭蕉のことを敬っていこうという態度がまったく感じられてこないではないか。
 と、芭蕉自身はこのように考えている。
(それが我が弟子、河合曽良。か)
 何かが、いや何もかもが、何時になっても理不尽であるのだ。

 唇を軽く噛み締めながらに、帳面をどける。
 そのひとつ横には、変装用のでかっ鼻が場所をとっていた。元々は曽良の私物であったはずなのだが、今ではなぜか芭蕉の荷物に含まれている。尻を狙ってささってきたこともある荒くれものだ。
 しかしどうして、曽良はこのようなものを持ち歩いていたのだろうか。
(それも、異様にでかい……)
 そもそも鼻と言い出した芭蕉が疑問に思うのも何ではあるが、定かではなかった。

 そのでかっ鼻もどけてしまうと、下敷きにされていた三角旗がのぞく。
 ペナントである。曽良が芭蕉のために選んで、買い与えてくれたものだ。旅費からではない、彼自身の財布から。何はともあれ、彼自身の意志で。
 『ペナント』としか描かれていないため、どこのどういったペナントであるのか、はっきりとしたことは解らない。しかし広げてじっくりと眺めていると、段々といい気分になってくるものだった。

 少しばかりに機嫌を直しながらも、芭蕉は更にその横を見る。
 そこにはマーフィーくんと、マーフィーくんと、マーフィーくんが並んでいる。外にいる外マーフィーくんと合わせると四マーフィーくんになる。今はひとまず四の友達であった。
 それぞれが違いなくマーフィーくんであり、すべてが同じぐらいに芭蕉の涙のにおいを孕む。
(私が悲しいとき、寂しいとき、ぜんぶ吸い取ってくれる。マーフィーくん)
 昼間には鞄の中と横から。夜は布団に入って隣に。
 ただし現役の外マーフィーくんに限っては、ひとつだけ他と大きく異なる点があった。
 顔に小さな孔が開いているのだ。それから、首には繕いあとが。
 これもまた曽良の所業であった。
 顔のそれは彼の手による、ひどく乱暴な縫い痕の名残である。糸を抜いても塞がることはない。首のそれは、やはり彼の手によって引き千切られたものを、芭蕉が泣きながら治してやろうと努力した結果である。
(チクショウ。曽良くんの着物にも孔、あけばいいのにッ)
 思い返す度、胸が痛む。

(乳首のあたりなんてどうだろうか……恥ずかしいに違いないぞ。ざまーみろだよ)
 そのような勝手を考えつつ芭蕉は、マーフィーくんを一マーフィーくんずつ抱き上げてみたり、左右から両手を引っぱってバンザイをさせてみたり、二マーフィーくんをくっつけて握手させ合ってみたりと、ひと通り意味のないことを続けた。


 楽しい。
 楽しいけれども退屈で、退屈だけれども、楽しい。 
 焦らされるような感覚がある。
 

 改めて外マーフィーくんを抱き上げると、そこからは涙のにおいに伴い、風がはらんできた枯れ草のにおいや遠い太陽から注ぐ光のにおいがする。
 様々な残り香を纏っている。生けるものすべてをほんの少しずつ吸収していく、『ともだち』。
(これも、外マーフィーくんならでは……かな)
 芭蕉は黙したまま、畳の上に並ぶ他の『ともだち』へも、愛おしげな視線を渡す。





 さて、曽良が買い物を終えて戻ると、そこにはきちんと師の気配があった。
 それで結構。勝手にふらふらと出かけて行ったりなどしていたら、ひどく面倒であるから取りあえず引っ叩いてやるところだ。
 彼は曽良の足音を察してか、おかえり、と気の抜けた声をかけてくる。返事の代わりに襖へ手をかけ、開いた。
 するとそこには貧相なその姿が。
 在った。
 あることには、あった。しかし、普段の通りではなかった。


 貧相なことにはまったくもって貧相であったが、加えて両腕を胸のあたりに当て、ぐったりとした縫いぐるみの一匹を抱えている。
 それだけではない。頭上にも一匹を乗せている。右肩、そして左肩にも、ちょうど一匹ずつ。

 そのような状態のまま、芭蕉はくるりと曽良のいる方へ振り向いた。
「おかえりぃ」
 気の抜けた声色が、もう一度。今度は胸に抱いた縫いぐるみ一匹の片腕を、指でつまんで引き上げて、振り振りとさせながらの挨拶である。
 曽良は黙したまま襖を閉めた。後ろ手に、閉めた。
 そうして無言のまま荷物を降ろすと、やはり無言のまま、つかつかと師の方へ歩み寄る。


「ウザい!」
「ほぐぁっ!」


 実に簡潔たる表現ではあった。変化に乏しい表情の分を、言動から補うのが曽良である。殊に芭蕉に対しては。
 すべての縫いぐるみ、ならびに芭蕉の体は、畳の上へと沈んだ。
「な……なぜッ、マーフィーくんの何がウザい……!」
「おっさんが何かを呻いている」
「説明しろよ!」
「ぬいぐるみもだいぶアレでしたが、とりあえず芭蕉さんがウザかったので……いや、正確には両方ともウザかったので」
「そ、そんな……言い直さんでも……」
 悲愴感にあふるる師のことはさておき。曽良は足もとの畳の上から、茶色い人形の一体を拾い上げた。
 すべての人形に同様の名がつけられているらしいが、曽良の手に渡ったそれは師の、芭蕉の胸に抱かれていたものである。よく確かめると、瞼と口には小さな孔が開いている。
 縫い痕だった。他ならぬ曽良のつけた名残だ。
 そして首には芭蕉の手による、器用ではない繕いの線。加えて、情けない涙のにおい。

 そうしたものを共有している、布切れとそして綿の塊。


「これも、中身は綿ですか」
 曽良が裂くような真似をしてみると、傍らからはやめて、という心地よい訴えが響いてくる。
「知ってるだろ、もう!」
「髪の毛でも入っていないかな、と……」
「ひいいいぃ嫌だよ! 怖いだろっ、そんなマーフィーくん……!」





 ふたり旅、昼下がり頃の安宿の。どうということもない出来事であった。













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