時に彼は、私のことをいざないに来る。
 それは決まって夜の深まった頃である。大概にして予告は無い。気まぐれか、あるいは子供がむずかるかのような頻度で、そっと訪れては私を巻き込むのだ。


 この行脚を始めるよりも以前には、彼の庵なり私の庵なりで隣り合って眠ることになったとしても、語りかけてくることさえなく寝息を起ててばかりでいたはずの曽良くんである。
 それが、伴っての旅を始めてから。殊に近頃には。
(……近頃、どころじゃないな)
 この晩にすら。
 彼は私を『いざない』にやって来る。

 どこか遠くへ誘わんとして引っ張ってくる、わけではない。彼が選ぶのはその逆である。整って引き締まったその身体でのしかかってきて、私のからだを、寝転ぶための布団の上へと眠らせることなく繋ぎ止める。
 そして、きれいな掌をそっと踊らせて私の両手を捕まえるのだ。自分自身の胸の部分へと導くために。引き込むように、皮膚の上から、心の臓へと触れさせるために。
 それが彼のする『いざない』であって、私のからだから中身すべてを、この夜へと繋ぎとどめるものであった。





「わかりますか。脈打っているのが」

 胸へと触れさせた私の両手をさすりながら、彼自身の鼓動を確かめさせる。
 曽良くんは、宿の用意した布団の上に私のことを押し倒している。すぐ横に敷かれたもう一つの布団は放り出したまま。未だどちらがどちらの寝床でもない。片一方の布団の中に、彼と私が重なっている。
「芭蕉さんは僕のことを冷めたものだと考えているようですが、こうして触れるだけで」
 寝間着をはだけてあらわにさせた彼の胸許からは、しっとりした体温と、確かな鼓動を感じ受けることができた。私の両掌はその場所に、両手の甲は曽良くんの掌に、隙間も無くぴったりとくっついている。
「ほら。こんなに」
 言葉とともに、私を挟むその体温はじくじく高まっていくのだった。どくん、どくんと伝わって私の内に流れ込んでくるものは、彼の鼓動だ。急所へと触れさせてまでも曽良くんが伝えたがっている、律動的な響き。ただし、それでいて、段々と急いていく。
「こんなに……」
 は、と短い吐息が漏れる。
 静かな顔立ちは揺らぐ灯りに照らされ、どこか切なげな表情を見え隠れさせた。
 そのさまを目にした私も、少しずつ高まっていく。彼の呼吸に伴う。速まっているのは、決して曽良くんの鼓動ばかりではなかった。
「……曽良、くん。明日は早い、よ」
「知っています。……ここで眠りたいだけですから」
 だから、傍らに寝かせてくれと彼は言うのだ。

 それだけで耐えるから、私にも耐えろと。受け入れてみせろ、と。共有を欲するのだ。小さく灯って潰える気のない、その欲望がにくらしい。
 けれども、ひどく愛おしくもあった。
 だから私は頷いてしまう。ふと気がつけば、考えるよりも先に首を縦に振っている。
 すると曽良くんは笑顔、を見せるようなことはないものの、表情を歪めることもなく、そっと頷き返してくれる。こうなったときの曽良くんは、きっと何時よりかも穏やかだ。私の手の甲をさすり続ける優しさからは安堵のようなものすら感じられてくる。



 こうして私は時におかしくなる彼と、いや敢えて言わせてもらえば普段の方がおかしいのに違いないんだけれども、とにかく普段とは違ってしまった曽良くんと一緒に布団へ入る。
 決して毎晩のことではない。だからといって、珍しいようなことでもない。行脚が始まってから幾晩目になろうか。
 曽良くんはこんな夜にばかりしおらしくて、朝になれば何事も無かったかの様にけろりとしてしまう。けれども、構わないのだ。可愛らしいとは思うし、それに今だけは私の方が主導権を握っているのだと、そんな気持ちでいられる。
(いつもは、いつも。今は今……)
 どうせ人生なんて『今』を続けていくものなんだから、今が良いのが一番なんだ。そして私は、こんな夜を決して嫌っていない。

 おんなじ布団で眠るとき、常日頃とは大きく異なった彼の様子を見ることができる。それは例えば小さな子供のごとくに、警戒のない表情だとか。安心しきった雰囲気で瞼を閉じてくれるんだ。こうなった時にだけ曽良くんは、私に対して自分の隙を許してくれる。
 私はそんな彼の隣に、黙して向かい合い横たわる。伴うようにして瞼を閉じる。灯りは既に消えているから、視界も閉じきれば真っ暗になる。
 それ以上のことは何もない。本当に何もしない、ので、後は眠りにつくばかり。
  
 そのはずだった。こうなった時、曽良くんの方からだって何か仕掛けてくるようなことは無かったんだから。
 だけれども、考えもせずに眠ろうとした私の横にて、彼の唇は開かれる。


「芭蕉さん」
「……へ?」
「僕の、心臓は」
 その声を、聴覚に捉えてから遅れてようやく噛み砕いた。
(曽良くんの心臓が、なんだって?)
 視界は深く暗闇のままだ。曽良くんの唇の動きどころか、表情の変化すらもよく解らない。
 ただ、彼は、どうしてであろうか饒舌になりたい気分でいる様だった。多弁な曽良くんだって悪くはない。悪くはないけれども、珍しい。
「心臓が……ここにいる限り、とどまらないままです」
 低くて綺麗で、極たまにしかその感情を拾わせない。曽良くんの声色が、私の耳の中を駆け巡る。
「隣にいるから、あなたなんかのおかげで、こんなにも。芭蕉、さん」
 抑揚のない響きはしかし、私の名を呼ぶところに至って波うった。
 なにを言い出したいのだろうか、この弟子は。

「僕の心臓を、いっそのことあなたに喰らわせてしまいたいとすら思います」
 一体、なにを。


 私の心臓もまた揺さぶられているかの様になって、波うち始める。
「死にたいというのではありませんが」
 だって曽良くんの感情も、たぶん何だか悲痛なほどに揺らめいているから、引き込まれてしまうのだ。注がれる言葉をこうしてどうにか受け止める、ただそれだけで。
「それでも、今。これに他の行き場もあるまいと」
 その声は、強請るためのものとも甘えるためのものとも少しだけ違っている。それらより、もっと夢見ることを忘れた。これは果たして、もしかすれば、縋るための声なのだろうか。
「……あるまいと、錯覚するほどです。腹が立ちます。このままでは、あまりにも暴れて」
 言葉に区切りがつく度に、熱のある吐息が漏らされる。おそらく彼の唇から聞こえてくるのであろうそれは、はあ、と切なげに短く跳ねては、ここにまで届きもしないというのに私の全身を揺さぶった。ゆっくりと、繰り返し。
「やりきれない……」
 焦らすかのように。

「……だめ、だ、曽良くん。そんなの」
 そうした中にあって、私は呆然と返した。
「君の心臓は……君のなんだから。私が食えるわけないじゃないか」
 自分でも何を口に出しているのやら確かではない、曖昧な気持ちである。しかし、このまま黙っていようとも思えなかった。
「そうだよ。君の、だろう」
「では。芭蕉さんに差し上げます」
「い、いらない……」
「……そうですか」
 ああ。流れてくる声色が、歪んでいく。
(違うんだ。そうじゃ、なくて)
 そうじゃないんだ。


 静寂。無言からなるもの。言葉が何も紡がれない。彼はもう、なにも続けようとしない。
 だめだ。それも、だめだ。
 曽良くん、ああ、曽良くん。頼むから言葉を切らないでくれよ。
 紡がなければ届かない。聴いてもらえなくても、聞こえない。こんなに弱々しいものたちが私と君の武器だけれども、繋がりたければ斬り合わないといけなくて、それも途中で止めてしまえば、繋がったはずの場所からすぱっと無くなってしまいかねないのだ。
 だから、言わないと。私が君に表したかったのはそれじゃないって伝えなければ。彼が、曽良くんが、本当にその手を離してしまうよりも先に。私の方から言葉、にしなければ。
 頼むよ、聞いていてほしい。君が言葉をかたちにするなら、私に対してそうするのなら、返す言葉もせめて君から受け止めて。そうでなくちゃ、私の武器はその意味を見失う。

 上手にまわらない言葉で必死に君へ返そうとしながら、足掻く私は今、このときから逃れられない。
 けど、それは君だって一緒だろう。今このときに、この場所に私のことをいざなったのは他ならぬ君であって、だから君と私とが隣り合うこの瞬間は、決して私だけのものじゃあない。


「……だって。だって曽良くんの心臓には、曽良くんがついてこないだろ」
 この声で。
「曽良くんのからだも、あと声も、思うこと、とかも……ついて来ないじゃないか」
 この声で、君の中にまで至りたい。私の背中を探してくれているのなら、それはどうか止めてしまって、君のことを追いかけている背後の私に気がついてくれないか。
「なあ、全部そろってなきゃ……曽良くんじゃ、ないじゃないか……」

 君へ向けるための私の視線を、他ならぬ君に確かめてほしい。
 心臓だけだなんて、どうしようもないって。くれるんだったら。
(……全部じゃなきゃ、って)
 私だって君に対して、こんなにも強く鼓動している。暗闇のうちに欲を灯しているのだ。
(わかって欲しいんだって、いうのに……)

「芭蕉さん」
 うだうだと想い沈んでいれば、ぽつりと再び聞こえてきたのは他ならぬ曽良くんの低音だった。
「……う、ん?」
 彼のつむぐ記号、響く私の名に、思わず小さく唾を呑み込む。
「心臓が……何時もよりか、ずっといたみます」
「……うん」
「ひどい、音がしている……」

 その声は、闇へ溶け込んでしまいそうなほどに薄暗く放たれておきながら、何処か甘くかすれてもいるのだった。またも私のこの身体を優しく引きずろうとしている。
(……曽良くんの、ばか。あほう)
 夜闇の中に限って、こんなにも艶かしい声色を寄越すだなんて。
 それは、私のうちに息づく灯火を焦らすものであった。熱へと甘えるがままに泡立ち、そうして溶けてしまえばいい、と囁いてくる。毒をもってより奥底から引き込まんとかかってくるのだ。
 期待をする程度には傲慢で、そのくせ臆病な私の炎は、指をくわえて立ち尽くす。君の内にて灯っているものを、大きく包みこんでやることも出来やしない。
(君のこと、抱きしめられたら、いいんだろうか。今ここで)
 どうやって。
(何をどうすれば、いちばん良いんだろうか……)
 私が。彼にとって。
 曽良くんのために。


 ゆがむ。歪む。不格好な渦に巻かれて、私はふらふらと踊り狂う。
 それでも君のことを見ている。
 だから、私が何も考えちゃいないだとか、そんな風には思わないでくれ。ぐらつきながらでも立ってはいるし、君にこの耳を向けているから。あともう少しだけ、見捨てないでおいて。


「あなたなんかがいるから。ずっと、いたんだままだ」

 曽良くんの言葉もまた、疼かせる熱を孕んだままである。
 いたむ。いたみ。それは果たして、いつ始まった。私が気付いていなかっただけで、行脚に入る以前にも君は、寝息をたてるふりをしながら私のことを見ていたんだろうか。
 いつ始まった。私はどうして、そのとき彼に気がつかなかった。いつ始まった。それならば私は、いつ始まった。
 こうしてまたひとつ進んでしまって、それから一体、何時まで続く。

「わたし、だって……」
 軋んで疼いて、身体すべてを滝の様にめぐる血流へと巻き込んで。この心臓を燃やし、いたませている。



 がちがちと高く音たてる、彼の鼓動と私の鼓動が、言葉にかわって混ざり合う。

『待ってばかりでは焦らされる』
 けど、置き去りも望まない。
『もしも置き去りにするのなら、鼓動だけでも噛み砕いていって』
 鼓動なんていう欠片だけ置いて、なにも言わずに去るのは止して。

 忘れたくない。
『忘れてください』
 忘れないでよ。
『忘れはしない』


 時間のとどまることはない。





 今はこうして暗闇の中、重なり合うほど、すぐ傍に。二人からだを横たえて、呼吸を交わすのが精一杯。
 闇夜は長くいたみを孕む。まとわりついて、抱かせる。
 それならどうして、そこへ飛び込む。それでも敢えて、そこへ飛び込む。
 私たちは今にも、その領域へと足を踏み入れてしまいそうな場所に在る。布団を一つ放ったままで、こうして、同じ寝床の中で。互いの灯す熱によって焼かれることを続けていれば、いずれは溶けて混ざるのだろうか。

(それでも。朝になったらまた君は、きっと平気な顔をしてるんだろう……)

 ねじれながらに絡み合い、そうして同じ朝を待つ。至れば揃って出立し、暗闇におけるふたつの脆さは、黙して静かに眠らせる。
 初心な子供でもやらないような進退を。その奥底にて高まる欲を。忘れさせてしまうがために、あるいは決して忘れぬために、未だ中途半端なつながりを保ったままで、あらゆる術を模索する。
 刃が上手にひるがえらない。


「……ね」
「……なんですか」
「まだ、寝んといて。……もう少し近くにおいでよ」
「……いやです」
「じゃあ……近くに置いてよ」
「…………構いませんけど」


 それでも灯火を寝かしつけ、ひっそりとまた、夜闇を待つ。













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