「芭蕉さんの口は、本当に減ることを知りませんね」
そういうのを生意気というのでしょう、と彼は言った。
からかうような様子はなかった。本気で腹を立てた様子もなかった。言い切った後にはただ黙ったまま、私からの返答を待ち望み試しているようだった。
ああ、例えそれが単なる見せかけで、本当は彼が望んでなどいなかったのだとしても、たいして変わるべきことはあるまい。私は必ず投げかけられた言葉に、私の言葉を投げて返すのだろう。
「そんなことを言う曽良くんこそ、生意気なんだよ。なんせ私は君の師匠なんだぞ!」
私は『きみ』の傍らにあって、決して無口になんかなれない。
なれない。ならない。無口になんか、なってやらない。
『きみ』の近くで。
か弱く、なんて、なってやるものか。
できるだけ。
できるだけは。
だって私はお喋りだからね。大人しいだとか寡黙だなんていう評価とは、ほど遠いんだからね。
だけども強くはないんだからね。
(みんな、それを知っているけど)
彼だって知っているだろう、けれども。
(私は、君の目の前でだけは。泣き言はいっても『弱々しく』なんかなるまい)
強くなんか決してない私の、弱くなんてなれない姿を。
真っ直ぐに睨みつけてくれる、真っ黒な瞳、がそこにだけ。
だから私は、弱くなんてならない。泣き言はいっても『弱々しく』なんかなるまい。
『きみ』という彼の傍にあるとき、そんな風にはしていられない。だけ。
「……曽良くんほどナマイキじゃあないよ!」
弱くなんてないから。
なれないのだから。
「つねりますよ」
「つ、つねり返してやるよ? 私だって、こう、ギューッと……」
早く、私のことを。
「難しいでしょう。芭蕉さんの方が身長も低いので」
「身長なんか関係ないわいっ」
もっと。もっと。いつも、いくらでも。
『強く』しに来てくれればいい。
違いなく真っ直ぐ、こちらを見つめて。
私のことをとらえる『視線』を、私はとてもよく知っているから。
だから私は弱々しくあらず、泣き言と一緒にだって強がり続けてみせるのだろう。
この口を開きつづけて、きみと。君と。
『きみ』が君だと知っているから。
君が傍らにあるとき、私は。
『弱く』だなんて、なれないままだ。
踊りたいのなら どうぞご勝手に
焼けた岩場も枯れた野原も あなたが舞うなら足りてるでしょう
あなたがひとり踊り出したら 焼けた岩場も枯れた野原も
僕が踏み入る場所ではなくなる 黙ってそれを見ているでしょう
それでもどうか忘れずに あなたは飛び立っていきやしない
どうせ戻ってくるのだからこそ どのようにでも踊れるのだし
美しかろうがそうでなかろうが
僕なら忘れないでしょう
忘れてやらないと言いましょう
あなたは飛び立っていきやしない
僕はそこへと踏み入ることなく あなたとともには舞えることなく
黙ってそれを見ているでしょう
踊らせたいなら どうぞご勝手に
焼けた岩場も枯れた野原も 入り口にまでは伴いましょう
あなたとともには舞えることなく
黙ってそれを見ている僕は
そのあとなどは どうぞご勝手に
あなたがどんな真似をしようと この目を撒きはさせないのだし
届かなかろうと構わずに
はりさけるほど
およぐ
心臓が
だからあなたは どうぞご勝手に
そうして今でも舞いおどる あなたがどんな真似をしようと
その手に風抱き戯れるうちは 僕の旅とて終わらない
終わらせないから
終わるまい
踊りたいのなら どうぞご勝手に
とどまることがもどかしければ どこで舞うにも伴いましょう
もしも松尾芭蕉が、寂しがりやのうさぎだったら。
「うさぎは寂しいと死んじゃうんだぞ? どこへ出かけるのにも連れていけよぅ! 曽良くんのばーかばーか」
「それでは、寂しくならないように……鉄よりも頑丈な檻を買ってきましょう」
「へ……ヘンなこと言うな!怖いだけで解決しないだろ!? 」
「必要以上に動き回るから、必要以上に孤独を感じるんです。首輪に手錠も買いましょうか」
「そこまでやったら、きみ……まったく動けなくなっちゃうじゃないか」
「余計な心配はいりません。きちんと芭蕉さんの手の届く場所に、水とキャベツと暇つぶしのおもちゃと『週刊・ハーイク』を置いておきます」
「ええーウニがいい! あっ、でもそんなんじゃ松尾ふとっちゃうよ! 肥えちゃう! ふっくらしたら跳ねられなくなる! 言っとくけど松尾を食べたっておいしくないよ、食べられるのはいやだよ! イヤ、だから……運ぶな! 運ぶなって!」
「うるさいうさぎだ……」
もしも松尾芭蕉が寂しがりやのうさぎだったら、なにせ寂しがりやなのだから、河合曽良のところに飼われて世話をされることになる。
「毎日たっぷりとウニを与えてやったら従順に育つんですかね」
「いや、わからんけど……すくすく育つかも。ウニ欲しい」
「しかしよく考えると芭蕉さん、ジジイでしたね。もう育たない」
「そ、そんなことないだろ! すくすくすくすく育つよっ…………いや、育たないかもしれなくたって。やってみる価値はあるんでないの?」
「……どれだけ好きなんですか。ウニ」
「すごい好きですけど!? ……でも。愛情もないとやだ」
「愛情とキましたか」
「さびしいと死んじゃうからやだ。けど檻の中は、こわい」
「注文の多いうさぎだ」
「こわいもんはこわいーっ」
飼われることにはなるのだけれど、なにせ芭蕉に曽良といったら、平坦なだけでは済まなくて、溢れんばかりの愛情で、互いのことを振り回す。
もしも松尾芭蕉が、河合曽良のちょうど人指し指ぐらいに小さな身体をしていたら。
近頃は金魚鉢の中がお気に入りで、勝手によじ上って入り込んでは、内側からぺたぺたとガラスを触っている。なにかとモノを持ち込んで住処のようにしてもいる。
ほんの少し以前までは、マッチ箱へ無理矢理もぐりこんで『せまいよ〜』『メカマツオッチ、略してメカマッチ!』などと下らない遊びをしていたくせに、まったくもって飽きっぽいことだ。曽良は呆れた。
「はぁ」
「なに、そのわざとらしい溜め息」
ちょうど人指し指ぐらいにちいさな芭蕉であるから、その声を、言葉を聞き取るのにもひと苦労だ。
「……ああ、なにか言いましたか? 聞こえませんでした」
「ウソつけ! 聞こえてただろ、今のはちゃんと聞こえてただろ!」
芭蕉がきぃきぃと喚いている。曽良はそこから視線を背けて、両耳を塞ぐふりをする。
聞いてやらない、ふりをする。
ウソだ。彼の騒いで訴える通りに、本当はウソだ。
その声を、言葉を聞き取ることは容易ではないのだけれど、それらによって紡がれるものは、どこまでも尊い。少なくとも曽良にとっては、ほかの何事とも比べようがないほどに価値のある。
だから、聞こえなかったというのもウソだ。曽良はひとつも『芭蕉』を聞き逃さない。
ちょうど人指し指ぐらいに小さかろうが、マッチ箱の中で遊んでいようが、からの金魚鉢に暮らしていようが、曽良は芭蕉を逃さない。聞き逃さないし、見逃さない。だから松尾芭蕉が、河合曽良のちょうど人差し指ぐらいにちいさな生き物であったとしても、彼らが引き離されることはない。
曽良はそのような芭蕉のことを、決して、どこへもやらないもので。
松尾芭蕉が魔法を使って、河合曽良のことを連れていく。
不可思議な世界へ連れていく。
けれどもそれは芭蕉のための、彼自身のための魔法であるから、
本当は彼にしか解らない。
芭蕉のほかには解らない。
それでも曽良は受け止める。それなのに曽良は受け止める。
両腕をいっぱいひきのばし、芭蕉の魔法を受け止める。
それだから曽良は考える。
ときどき、どうしても考える。
もしも魔法が曽良のため、ふたりのための魔法なら、
ふたりのためだけのものとして、ほかの誰にも見えないだろうに。
本当に自分のためだけの魔法が、彼からつむがれるようなら好いのに。
けれどもすぐに考え直す。
願いつづけることは、ない。
曽良のほかの誰にも意味のないまま、彼の魔法が終わるのだなんて、
きっとひどいことなのだろうと。
世界にとって、ひどいことだと。
このようなことを思う己の、どこまで馬鹿らしいものであろうと。
考え直して、願いつづけることのないまま。
魔法の中をひそやかに巡る。
芭蕉の魔法のその中を。
一方で曽良は芭蕉のために、とても手のこんだ料理をつくる。
それは細工めいたものであったり、
あるいは流行りの天ぷらであったり、
何かと定まりはしないのだけれど、
芭蕉のための料理である。
どのような食卓に並ぶのか。
どんなかたちに飾り付けられて、
どのように並べられるのか。
ずっと前から、定まっている。
作り始めるその前に、芭蕉のためだと定まっている。
曽良の料理はなにも決して、すべてが芭蕉だけ、のものではない。
けれども芭蕉のためにとつくれば、すなわち彼のためだけの料理だ。
彼のために、と生み出されたもので、
芭蕉の皿に乗っかるのだし、
彼の箸にて、つつかれるもの。
だから芭蕉は曽良の料理を、口の中へと放り込む。
それから頬をゆるめてみたり、
あるいは、そうでなかったりする。
そのさまを真っ直ぐに見つめて曽良は、
じっと唇をむすんでいる。
という、葛藤。
という、しあわせ。
という、愛情。
という、生業。
という、ふたり。
途切れるまでは紡がれて、
どこかで途切れたそのあとに、
ふたたび紡がれることも、ある。
繰り返すことを選ばれるそれは、
ふたりの、いのち。
そして今日も、ふたり。