(曽芭曽)




「ちいさな子供にいつまでも同じ玩具を持たせておくと、愛着が深まりすぎて手放せなくなるそうですね」
「私にとってのマーフィーくんみたいなもんだね」
「どのマーフィーくんですか」
「ぜんぶ」
「では、一匹さえ残っていれば他はどうでもいいですね」
「え、い、いいわけないだろ! みんな私の友達なんだぞ!」
「つくんですか。見分け」
「つくよっ。この子は……君にズタボロにされたマーフィーくん」
「繕い痕だらけですね……」
「君のおかげでな!」


「しかしモノへの執着というのからは、卒業した方がいいそうですよ。いつかは」
「離れる必要なんかないよ。友達なんだから」
「それでは、僕が鋏を使うのをやめたとしたら」
「へ」
「髪を切るのも断ちますか。あと、笠を被るのをやめるとか」
「……なんで?」
「交換条件です。芭蕉さんがその縫いぐるみを断つための」
「そ……そんなんしたって私はマーフィーくん、捨てないし」
「そうですか」
「捨てないんだから!」
「そうでしょうね」
「……いいの?」
「だめだと言ったら聞きますか」
「聞きたくないけど……」
「そうでしょう」
「そうだけど」
「いくら賭けみたいなことをしようが、芭蕉さんが頷かなければ何ひとつ変わらないんです。僕の変えたいようなことは、何ひとつ」

「……頷くもんか。私はマーフィーくんを捨てたくない」
「しかしそれは最低限の荷物ではないでしょう。……旅に慣れているというのなら、執着などはらしくないと思いませんか」
「私の持ち物ぜんぶ、私の旅にはいつだって必要だよ」
「そうですか……僕には余計に思えます」
「だって、好きなものに囲まれてた方が楽しいって知ってるからさ。それに私だけじゃあなくて、マーフィーくんも、鞄の中のつけっ鼻やダメになっちゃった帳面も、全部ほんとは旅人だっていうことさ」
「だから持ち歩くんですか」
「そうだよ」
「贅沢ですね」
「贅沢だよ。確かに旅なんてみんな贅沢だよ、いろんなところでいろんな人の世話になって……」
「自覚はあったようですね」
「でも返しとるわい。いい句を詠んでるだろ!」
「いいえ、ほとんどがハズレです。やはり芭蕉さんには甘えが目立ちますね」
「と……とにかく旅は生きてくのと一緒で、明日には終わるかもしれない道だから。私は好きなものに囲まれてたいんだよ」
「だから贅沢に過ごすんですか」
「ああ。だから旅の始まりからここまで、ずっと贅沢してきたんだ」
「ずっと?」
「はじめから、ずっと。これが欠けたら安心できないって思うようなものは、ぜんぶ……」
「そうですか」


「曽良くん」
「はい」
「マーフィーくんを捨てなかったら、曽良くんは鋏を捨てて、髪型も捨てて、笠まで捨てて……どんどん捨てていって、最後にはついて来てくれなくなるのかな」
「そんなことは知りません。芭蕉さんがその縫いぐるみから卒業するまでに、いったいどれだけを差し出せばいいのか」
「私は、なにも捨てたくない」
「僕にはわからないことなので」
「……比べるのも嫌だよ。それに君が捨てていくのも、本当に少しずつ欠けていっちゃうみたいなのも、どれも嫌だ」
「不安そうにしますね。縫いぐるみがあるのに?」
「全部なかったら不安になるから。卒業なんてしないよ、ねえ曽良くん、君だって……なんにも捨てないで」



 男は縫いぐるみがぼろぼろにされた時にもしなかったような類いの表情を晒して、自らの手でまなじりを拭った。その我が侭と、自分自身の望むかたちとを天秤にかけて、もうひとりの男は微かな溜め息をつく。
 それから甘えるような口づけにひとつだけ応じてやった。これまでに愛情らしきものを囁き合ったこともなかったふたりだとは思われないほど、それは恋人じみた接触だった。


(捨ててしまうつもりなどは、もう既に奪われてしまっている。僕の方からも)

 それだから誰に壊されることもなければ、誰に救われることもない。決して嘆くようなことでもない現実だ。唇を離した後には、すべてを忘れてしまえばいいのだ。そのようにすればきっと何ひとつ、ここから失われるものはないのだから。
 けれどもふたりは、いつまでも互いの身体を手放すことができなかった。なぜかといえば不可思議なほどの安心を錯覚してしまったので。












(曽芭)




 うっすらと開いた両眼の視界に、緑が生い茂り広がっている。
 寝転がっていれば空にはお天道様でも見えようものだが、取り囲む木々が邪魔をしてくれるおかげでそこまで眩しいこともない。陽光は淡い木漏れ日になってきらきらと降り注いできていた。
(眩しい、ことはない……)
 たしかに眩しいことはないのだが、しかし、はっきりともしない景色だ。
 寝転んだままで見上げる世界には、木の枝と木の葉とが散らばっている。漏れてさす光が隙間を埋める。その木漏れ日は優しいながらに、枝や葉の輪郭をぼやつかせていた。

 陽光を浴びる葉の色は彼の、着物のそれに。枝の色は彼の、髪の毛のそれに。ひどくよく似ている。


 今にもすべてが溶けてしまって混ざり合っていくかのようだ。
 寝転んだままで見上げる世界に包まれ、両眼をうっすらと開いたままで考える。溶けてしまいそうな景色なのだから、もしかすればもう溶けてしまっているのかも知れない。溶けてしまっているのだとしたら、あの陽を浴びた葉と枝との色彩はいったい何ものなのだろう。

 ひどくよく似ている。例えばそれが見間違いではないのだとしたら。
 彼はもう既に、ここに在るのだろうか。この狭い世界を、溶けいるようにして覆っているのだろうか。

 すると、弾んだ囁き声が聞こえてくる。
「まだ、ここにいるの?」
 間違えようもなく彼のものであった。


「……そちらこそ。いつまで、そうしているつもりですか」
「君が飽きるまでさ」


 ならば、元に戻れなくなったとしても後のことは知りませんよ。
 曽良はそうして言葉を打ち切ると、うっすらと開かれたままであった黒い両眼を閉じた。

 木漏れ日に溶けて混じることを始めた枝と葉が、どこからともなく吹いてきた微風にくすぐられる。その風は草の匂いとともに曽良の意識を熟眠へと運んだ。
 また、軽やかに笑う囁き声が、聴覚を跳ね回りはじめる。












(曽芭)




「もしも人生を諦めるんなら、今度は水筒の中にひっそり住んでる妖精として生まれたい。曽良くんが水を飲むときに口の中まで運んでやったり、時々には邪魔してやったりもする妖精になりたい」


「素直に言ったらどうですか」
「なにを?」
「ただ唇が寂しいんだと」
「ぜったい言わん」












(ケン藤ケン)




 ケンジという名のその少年は人間である。
 藤田という名のその少年は人間である。
 ケンジという名のその少年はただの人間である。
 しかし、藤田という名のその少年はただの人間ではない。


 藤田という名のその少年はただの人間ではない。
 ただの人間ではないが、ただの物の怪でもない。
 藤田はただの人間ではない。
 ただの物の怪でもない。
 藤田は人間である。藤田は、人間ではない何らかの物の怪である。

 藤田はただの人間ではない。どうしてただの人間ではないのかというと、それは藤田自身にもよく解らない。
 よく解らないのであるから、そうであることを望んだというわけではない。
 藤田はただの人間にはなれない。
 ただの物の怪になるつもりもない。
 そのどちらにもなりきれずに、たったひとつだけの秘密を抱えて平然と生きていくつもりでいる。


 たったひとつの秘密というのは、たったひとりのために在るものだ。
 だから藤田はひとりっきりで秘密を抱えて生きてきた。
 だから藤田は、ひとりっきりで抱えてきたはずの秘密を手放した。
 手放したその秘密はしかし、決して失われたわけではない。契約に姿を変えて今でも生き続けている。
 契約ならばひとりっきりでは結べない。


 満月の夜が終われば藤田の姿は元へと戻る。ただの人間のような姿へと戻る。
 しかし、契約に姿を変えたかつての秘密が、元のようにただの秘密へと戻ることはない。
 たったひとりのものではなくなったそれが契約でなくなる日は訪れない。
 例え『ふたり』のうちのどちらかが失われようとも、契約でなくなる日は訪れない。
 藤田は自ら秘密を捨てた。たったひとりのためにあったそれを捨てた。

 藤田はただの人間ではない。そして、ただの物の怪でもない。
 藤田は人間である。藤田は物の怪である。
 どちらでもない。どちらともいえる。
 ケンジという名のその少年はただの人間である。ただの人間であるから、物の怪ではない。
 どちらかでしかない。だから藤田とは異なっている。だから、藤田とも同様である。


 ふたりは、たったふたりのためだけの、ただの契約を結び合っている。
 藤田はケンジの親友である。
 親友の絆もまたひとりきりでは結べないので、つまりはケンジも藤田の親友である。
 どちらでもあり、どちらでもないもの。どちらかでしかないもの。
 秘密であることを忘れた契約。
 親友。

 真実はたったこれだけしか見つからない。けれどもたったふたりのためには、これだけで充分に過ぎるほどだった。












(曽芭  パラレル




 その街には小さな菓子店がある。パティスリー深川と名のついたその店を、ふたりの男性店員が切り盛りしている。
 店内には幾種かのケーキと、簡単な焼き菓子の類いが売られている。イートインはない。本当にささやかな規模でもって穏やかに保たれている店で、だからしてアルバイトの募集などもしていない。

 黒髪の若い男性がパティシエを担当する。効率のいい仕事をして、時たまに表へ出てくることもある。そういった際にはもう一人の店員を相手にして何かを喋っていたり、接客の手伝いなどをしてやはり手際よく働いてみたりといった様子である。その涼しげな容姿が女性客からの人気を集め、淡々と無駄のない接客をしてくれるので利用しやすいと男性客からの人気をも集めていた。
 焦げ茶の髪の、中年といったほどであろうか、やや小柄な男性が接客を担当する。どのような客に対しても親しげに語りかけ、どれが良いかと相談をされれば喜ばしげにアドバイスを返して世話をやいて見せる。調理の合間に表へ出てきた歳若い方の店員に、お客様に対して馴れ馴れしいですよ、と叱られていることもある。しかしながらその親しみに溢れた様子は女性客からの人気を集め、もう一方の店員とのやり取りが見ていて面白いというので、男性客からの人気をも集めていた。


 パティスリー深川には多々の常連客がある。しかしその内に、ふたりの店員がどのような縁あって繋がっているものか、その真実を把握している者はいない。お互いに名前で呼び合っているのだから親子ではない。まさか兄弟でもあるまい。ただ、だからといってもそれを追究しようとする者は今のところなく、小さな菓子店の日々はどこまでも穏やかなままに続いていく。

 誰ひとりとして知ることはない。自慢のケーキや焼き菓子を彩る腕の持ち主、歳若き店員であるところの黒髪の男性が、実のところは世界有数の資産家である河合家の跡取り息子であるのだということを。
 誰ひとりとして知ることはない。自慢のケーキや焼き菓子の味を世界で一番によく知り尽くし、世へ送り出すことを幸いとする焦げ茶の髪の男性が、世間に名高き失踪中の作詞家であるのだということを。
 誰ひとりとして知ることはない。彼らが親子でも親戚でもない、ただならぬ仲であるのだということを。


 そして、誰ひとりとして知ることはない。
 パティスリー深川の開店する数ヶ月前に、紆余曲折を経て『かけおち』を実行したふたりであるのだということを。


 よもや知っていようはずもなかった。












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