「もし曽良くんがくもったガラスの向こう側にいたとしても、私なら絶対に気付くね。そうしたら袖でくもりを拭って合図してやるからさ」
「では、もしも本当にそうなれば僕は……ガラスを割って芭蕉さんのいる方へ行きましょう」
「……刺さらない? 私に」
「困難を乗り越えるためです。傷つくこともあるでしょう」
「わざと傷つく必要はないだろ!」
もしも目の前に曇り硝子の窓があるのだというなら、たとえどんなに真っ白に染まっていようが素直に開いてしまえばいい。ただ、ただ素直にそこを開いて、普段のように無謀な態度でもって飛び出してくればいいのに。
向こう側には僕がいるのだと例えておきながら、僕自身に対してそのようなもどかしい言い方をする。そんなにももどかしい振りをする。
曇りをはらった硝子窓から無遠慮に覗き込んでくるつもりでいる。まったくもって阿呆らしい。
彼がその手で鍵を開かないというのなら、そうであるならば僕にはもう、こちら側から硝子を割るほかの術など残らないのだというのに。
その男との間においてこそ、あらゆる不確かによって焦らされることを好かない。
だから優しくはない、少しでも手っ取り早いそれだけが、そこにだけ向けてやることのできる、僕のすべて。
「ひとりじゃ寂しくて眠れない」
「怒りますよ」
「怒られてもいい」
「怒りましたよ」
「怒っていいから!」
「……曽良くん」
「……なにか?」
「おんなじ布団の中だなんて、よく考えると近すぎてドキドキしちゃって眠れなァグフォ!!」
「これだけ近いと寝転がったままで気軽になんでもできますね」
「…………」
「眠ってしまったんですか。芭蕉さん」
「……いたいよぅ」
「ええ。まあ、怒ったんで」
「……いたいんだよぅ」
あなたのすぐ前を歩くということは、
君のすぐ後ろを歩くということは、
それこそ盾にされているようなもので、
間には常に何も見えない。
だから僕は、
だから私は、
その身体を護りながらの旅をしている。
彼のことを護りながらに、旅をしてやる。
その喉に通される果実は、そのからだへと溶け込んで巡る。
その喉に通される水なら、そのからだの隅々にまで染み渡る。
たとえば毒が含まれていようとも。
もしも、いずれかに毒が含まれているのならば、それは沸々として微笑みながら囁くのだ。
『あなたのからだの中に残りたい』。
「ほら曽良くん、ここの川さ。水きれいだし飲めると思うよね?」
「透き通っているからといっても、きれいだとは限りませんよ」
「どう見てもきれいだろ! 飲むぞ、私は飲む、飲んじゃうっ」
「それでは僕も飲みましょう。このまま芭蕉さんが腹を下さなかったら」
「そんなきっぱりと毒味役にせんでも……いや、もう飲んじゃってるけど」
その喉に通される水なら、そのからだの隅々にまで染み渡る。
木のささくれなら刺として、そのかたちのまま彼の中へと入り込むだろう。
髪飾りなら作法の通り、そのかたちのまま彼の髪の毛へと埋まるのだろう。
やがて追い出されるそのときまでは。
柔らかなものも、美しいものも、いつかは消える傷痕だけを彼に残して去っていく。
それだから毒は、沸々として微笑みながら囁くのだ。
彼のうちに保たれることのない他のすべてを嘲るように、口許をゆがめて囁くのだ。
『あなたのからだの中に残りたい』。
「ん。おいしい、全然いける」
「後になってから芭蕉さんの体内で爆発するかもしれませんね」
「……せんよ! してたまるか、爆発ッ」
「しなければいいですね」
「悪意に満ちた発想はやめろォー!」
(そうではない)
実のところは彼こそがどこまでも悪意に満ちている。
手当り次第に欲しがるくせをして、手に入れてしまえば何に対しても離したくないのだとまでは縋らない。
柔らかなものも、美しいものも、自覚を知らない悪意に満ちた彼の内には残らない。
それだから。
(だから僕は、毒であるのだ。彼がそうであるのと同じようにして)
見た目にはただ透き通ったふりをして。
そうして、少しずつ蓄積されるのだろう。
おまえの近くで眠るのが、夢。
おまえの近くで夢見るのが、夢。
夢を見ようというだけの、夢。
叶える術など解らない、夢。
夢を見るやり方すら知らない。
夜はオレのものではないから。
おまえの隣に在るはずの、夜は。
「なー、藤田ァ」
「ん?」
「満月まであと、どんくらいだっけ」
「……あとちょっと」
「どんくらいだよ。あとちょっとって」
「一週間」
「よく知ってんね。でも、ちょっとじゃなくねぇ」
「すぐだろ」
「そーか?」
おまえがそんな夜を待つのは、誰よりオレのためなんだろう。
けれども月が満ちる夜にだけ、お前の傍に在るはずの『それ』は、絶対的にオレじゃないのに。
おまえと隣り合わせの夜は、どうしてもオレのものにはならない。
(あと一週間で、また満月だ。あとほんの一週間)
(あと一週間で、また満月だ。まだ一週間もある)
月が満ちるまであと少し。夢みる夜まであと少し。
おまえとオレの夢見る夜だ。オレだけが夢を見られない夜だ。
その夢はオレのものだけれども、オレが見られるものじゃあないから。
(あと一週間で、また満月だ。その夜はオレのもんじゃない)
(あと一週間で、また満月だ。一週間もあるのに、おまえといられる夜なんか)
(どうせ忘れる。写真をみたって思い出せなくて、オレじゃないオレが他人みたいにかわいそうで)
(おまえといられる夜なんか、その日だけ。ぐらいしか)
(かわいそうなのに満ち足りてて……オレから遠くて、長すぎだ。満月の夜なんて)
(こいつ、今なに考えてんだろう?)
(こいつ、今なに考えてんだろう?)
もどかしいのも、やりきれないのも、長い時間も、短い時間も、魔法の言葉で補ってしまうのだ。
「うちのおとーと待ってるから、来いよな」
「行くよ。親友なんだろ」
「ああ。親友だもんな」
「ああ。親友……親友ってさぁ! 自分から言うかよー、恥ずかしッ」
「言い出したのそっちじゃね? 藤田おまえ恥ずかしッ」
魔法の言葉をとなえても、ふたりの夜はそこにだけ。
今のところは、どうしようもなくそこにだけ。
そこにだけしかないのなら、迎えるためには待つほかがない。
何にも比して希望に近く、紙一重の差で遠い夜。
(どうせオレはぜんぶ忘れる。おまえの隣に在るはずの夜は、どうしてもオレのものにはならない)
(どうせ藤田はぜんぶ忘れる。おまえと隣り合わせの夜は、どうしてもオレのものにはならない)
おまえの近くで眠るのが、夢。
おまえの近くで夢見るのが、夢。
夢を見ようというだけの、夢。
叶える術など今は知らない。
夢。